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漫画「島耕作」における「日当」表現  何が問題だったか――当事者性の観点から

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
当事者にとって《当事者の存在》を疑わしいものとされることの苦痛を考えてみたい(写真:Keizo Mori/アフロ)

法的問題にはならないだろう、しかし

先に、Yahoo!上で、漫画「社外取締役 島耕作」モーニング46号の中のセリフが不適切表現であったことについて論じた。

フィクションの中のセリフが人を傷つけるとき―漫画「島耕作」問題を考える

今回は、この表現が《なぜ問題か》を引き続き考え、そこから《何を修復すべきなのか》につながる考察を目指したい。その前提として、前回に引き続き筆者の見解は、これは【法的に】謝罪や撤回や修正を強制すべき事例ではないが、【社会的には】謝罪など何らかの修復的な対応が必要な事例だったと言える、というものである。

この漫画中のセリフの中には、個人名や団体名は出てこないので、名誉毀損には当たる可能性は低い。「反対派」「抗議活動をしている人達」という言葉は、前回紹介した裁判やBPO委員系見解などの背景からすると、文脈から特定の人々または団体を十分に連想させはするが、個人または団体を特定しているとまでは言えないだろう。

次に、この表現はヘイトスピーチにも当たらない。日本の「ヘイトスピーチ解消法」に該当しないことはたしかだが、そこに限定されない広い意味でも、あるアイデンティティに対する排撃的な言葉や排撃行動を煽る言葉が含まれている、とは言えないからである。ただ、これまで起きてきた嫌がらせの中に排撃的なものがあったため、「この漫画中のセリフをきっかけとしてまたそれが起きるのでは」といった危惧感を当事者が抱くことは、考えられることである。とはいえ、それが実際に起きているわけではない段階では、法的に何かが言えるものではない。

しかし本稿では、ここで考察を終了させるのではなく、社会的な問題として、もう少し検討してみたい。

誰に対する「お詫び」か

今回、講談社が公表した「お詫びとお知らせ」については、謝罪の相手が「読者の皆さま」になっていることについて指摘する発言が多数上がっている。

不適切表現に関する市民の抗議や批判を表現者側がどう受け止めてどう対応するかは、基本的に表現者の自己判断(自律)に委ねられる。社会的評価が下がることを避けるために対応するか、顧客が減るかもしれないというリスクを飲みつつその表現を続けるかは、表現者に委ねられる。さまざまな事例の中には、「反射的に屈して謝罪や表現削除をしてしまうのではなく、表現者の表現意図をしっかり説明して踏ん張ってみても良かったのでは」と思うような事例もあるのだが、今回の事例の場合は、実在する人々の評価や人格を具体的に貶める表現になっている点で、真正の「不適切表現」に当たると筆者は考えている。

漫画内のセリフは、先に見たように、おそらく名誉毀損には当たらない。しかし、この表現によって人格面で傷つき、社会的にも再び嫌がらせが活発化して活動が困難になるというおそれを抱く人々、すなわち抗議の声を上げた人々は、実在する。その人々の活動も表現活動である。したがって出版社と作家は「この表現を有罪とする法律や不法行為とする判例は存在しない」というところに開き直るのではなく、この表現によって《害されたもの》に向き合い、修復を試みることが必要だったと思う。したがって、その謝罪のあり方も、(A)「受け手がそういう受け止め方をして不快に感じたのであれば、そういう不快感を与えたことについて詫びる」というタイプの謝罪とすべきではなく、(B)前回の投稿で紹介したBPO委員会の指摘にもあるように、作品公表までのプロセスに問題がなかったかを確認すべき案件だった。講談社が示した「お詫び」の内容が、(A)タイプの謝罪ではなく(B)タイプの謝罪となっている点については、誠実な謝罪文として評価すべきだと思う。

しかし、この文の最後の宛名は「読者の皆さま」となっており、この表現によって実際に傷ついた人々に対するものにはなっていない。出版社は「読者の皆さま」の中にはこれを読んで傷ついた当事者の人々も当然に含まれている、と答えるだろうと予想はつくが、詫びるべき相手をそのように希薄化させることは、抗議の声をあげた当事者にとっては納得できないものだろう。

「日当アルバイト」の何が悪いのか――当事者の実在性問題

「日当アルバイト」という言葉は、その単語単体では、人や団体を貶める表現ではない。「この言葉を不適切というのは、実際に日当をもらってアルバイト生活をしている人たちを貶めることになるので、そのほうがよほど不適切だ」という意見も散見されるのだが、ここは問題を文脈でとらえる必要がある。文脈というのは、前回の投稿で紹介した裁判やBPO委員会見解を視野に入れての背景事情のことである。

ここで問題となるのは、信念・信条や自己の権利(自分が受けた被害)に基づいて社会活動をおこなっている人々がいるとき、《そのような当事者は実際にはいない》という印象を与え、これによって《その活動には社会的意義はない》という印象を与えてしまうことである。これが当事者の意志をくじき、人格を貶めることになるのである。「金銭目的でやっている」または「金銭を与えてやらせている」と述べることは、文脈によって、そうした作用をもつ。

たとえば、先ほど筆者は、「抗議の声をあげた当事者」と書いた。ここでは、《出版社に対して抗議の声を上げた人々》と《問題となった漫画のセリフによって自分たちの活動が貶められたと感じている当事者やその支援者》と《漫画のセリフ中に出てきた辺野古の抗議活動をおこなっている当事者やその支援者》を同一の人々として書いている。ここにもし、「出版社に対して抗議をした人々は、ある筋から金をもらってこの出版社を攻撃しているのだ」という言論が広まったら、どうだろうか。この人々の抗議は、社会一般から、社会的意味のない利己的な活動という印象を持たれてしまうだろう。

もちろん、市民活動にも、交通費や会場費その他の実費はかかる。そこで多くの市民活動団体は、賛同者からカンパ金を集めたり、冊子やグッズを販売したりして、活動費を捻出している。こうしたカンパ金の受け取りや活動費の支出は、当事者の動機が当事者自身の信条にあることを疑わせるものではない。しかし、特定の団体や企業や個人から金銭を受け取って活動しているとなると、この団体の活動の質が変わって見えてくる。

近年社会問題となり、対応のために景品表示法の改正(令和5年)もされた「ステルスマーケティング」問題を考えてみるとわかりやすい。特定企業の広告であるにもかかわらず、広告であることを隠して自由な言論であるかのように見せかける表現を「ステルスマーケティング」という。これは消費者に対して、判断材料としての公正さを欠く広告表現になるということで、スポンサーがついているインフルエンサー言論にはそのスポンサーを明示することが義務付けられるようになった。

《企業の営利活動と消費者との関係》と、《民主主義における社会問題発信者と一般市民の関係》とはそれぞれ別物ではあるが、スポンサーのある表現活動の場合にはそのスポンサーを明示すべきで、スポンサーがいるのにそれを明らかにしない活動は社会から疑わしいものとして見られる、ということについては共通している。

沖縄県辺野古の基地建設をめぐる反対運動について「日当をもらってアルバイトでやっていることだ」と述べることは、このような意味で、その活動の社会的意義を貶める表現ということになる。これは民主主義の担い手としての自由で自発的な言論ではなく、スポンサーの依頼に基づいておこなっている営利活動だという印象が生まれてしまい、この市民運動の当事者性(当事者が実在するかどうか)が疑わしいものとなってしまう。

この場合、(A)この市民活動に共感した篤志家が多めのカンパ金を寄付したという場面と、(B)特定の個人または団体がこの市民活動を金銭を支払っておこなわせているという場面との間に、はっきりした線引きができるわけではなく、海外でも選挙にからんで「金も言論だ」「金で民主主義を買うべきではない」といった論争になる事柄ではある。が、明らかに(B)であるように印象付けることは、やはり自発的に活動している当事者の当事者実在性と発言価値を低めてしまい、これによって当事者の人格を傷つけるものと言える。

またあの嫌がらせが、という当事者の不安感

先に筆者は、この漫画内の表現自体はヘイトスピーチには当たらないと述べた。しかし2017年のテレビニュースの事例を考えてみると、この種の中傷は、辺野古で抗議活動をする人々への嫌がらせをエスカレートさせ、当事者の活動に対して圧迫的な影響力を発揮してしまった。今回の件も、漫画表現自体はそうしたものを煽る内容ではないので法的問題にはならないが、社会的配慮としては、表現者(漫画家と出版社)の側がそうした社会背景にも配慮することが望ましかった。

政治家や著名人(インフルエンサー)の発言に市民の一部が触発されて、あるいは心理的な後押しを得た思いから、過激な脅迫を含む嫌がらせ抗議がエスカレートする、という社会事象は、これまでに何度も起きている。とくに芸術作品の展示や映画の上映などの表現活動をめぐって、これが多発してきた。《表現活動》のプロとして事業をおこなっている出版社は、こうした表現活動妨害事件について、知識を持っているはずである。

辺野古基地問題を問う社会活動も《表現活動》であり、これが暴力行為を含まない言論表現活動である限りは、憲法上もっとも尊重されるべき政治的表現活動ということになる。したがって、当事者が「またあの嫌がらせが来るのか」と、自分たちをとりまく事態の不当な悪化を怖れて、出版社に苦情を寄せた場合、出版社は、その怖れを「言いがかり」の類としてやりすごすべきではなく、言論の自由を擁護するという同じ土俵に立って、これを真摯に受け止める必要があった。そうした観点からも、筆者は、出版社が謝罪に踏み切ったことを肯定的に評価している。

当事者性を疑わせる別のセリフへのモア・スピーチ試論

もう一つ、辺野古に関わる市民活動について、「日当」表現とは別に、その当事者性を疑わせる可能性のある表現があることも指摘しておきたい。漫画中で島耕作が「抗議活動をしている人達の中には県外から来る人もいると聞いたことがある」と述べるセリフである。

このセリフの内容自体は誤りではないし伝聞形で書かれているので、これについて修正削除すべきだとは言えない。しかしこれが先の「日当」表現と結びつくことによって、《当事者ではない部外者が、日当目当てにこの抗議運動に参入している》という印象を与えかねない。そこで、「日当アルバイト」という表現とこのセリフが結びついて当事者性を疑わせる印象操作がさらに強まってしまう可能性を考えて、この二者を切り離す注釈が必要だろう。ここでは当該の言論を抑えたりこの注釈を強制したりする方向でなく、「表現の自由」における「モア・スピーチ」の考え方に則って、本稿内でこの部分への注釈を試みてみたい。

ここで「当事者」と言える人には、いろいろな括り方がある。とりあえずここでは、基地建設によって被害を受けるおそれのある人々、自分の暮らしのためにこの土地の健全な状態を守りたいと考えている人々、あるいはこの自治体の住民すなわち自治体または地方選挙区の有権者、という人的カテゴリーが考えられる。これが狭い意味での当事者である。しかし、辺野古の問題に関心を寄せる人々は、これにはとどまらない。

日本国内にも海外にも、この問題に関心を持つ人は多く、県外さらには海外から現地を訪れた市民や研究者は、相当数、存在する。その人々のほとんどは、交通費等は自費である(ごく少数、講演者として招かれた人や、研究費で来ることができた人がいるかもしれないが、これはここでカウントする必要のない要素である)。筆者が知っている人だけを考えても、政治学者、社会学者、法学者、そして地質や土壌・水質汚染問題を専門とする理科学系の研究者、そしてジャーナリストや映像作家など、多くの人がこの問題に関心を寄せ、この土地を訪れている。

現地の状況を調査する必要を感じた研究者が、地理的に離れた土地に出かけて《実地踏査》をすることは、通常の活動である。

また、現地の市民運動に自分も参加したいと考えて、県外から来た人もいるだろう。沖縄の基地問題を日本全体にとっての問題だと考えて社会運動や表現活動に参加する資格、そして状況を《知りたい》と思う資格は、日本の主権者である日本国民や、日本の状況を国際秩序にとっての重要問題と見て関心を寄せる海外の人々のすべてにある。

これらの人々の存在と活動は、漫画中に登場する「日当アルバイト」の話とは切り離して把握する必要がある。

「表現の自由」の担い手への助言として

これらのことを総合すると、今回の件は、法的には謝罪や修正や撤回を強制すべき事例ではないが、当該の出版社や漫画家が社会的信頼に足る表現者としての社会評価を大切にしたいと考える場合には、表現者の自律の一環として、謝罪や修正をおこなうことが必要だったと思う。

イギリスの思想家J.S.ミルに倣った言い方をするならば、この件では、謝罪や修正を《法で強制》すべきではないが、「表現者としての社会的信頼を維持したいと望むのであれば、そうしたほうがいいだろう」と《忠告》することはできる。その結果、出版社が謝罪をしたことについて筆者が肯定的に《評価する》と述べたことも、出版社や漫画家の「表現の自由」を不当に圧迫し萎縮を押し付ける言論ということにはならないと考えている。

(一部の方から、私の前回の論説は出版社と漫画家の社会的信頼を傷つけ、出版社と漫画家の「表現の自由」を不当に圧迫する言いがかりであり、筆者の論説のほうが法律の不当解釈を笠に着て特定の表現者を名指しで非難する誹謗中傷である、との批判を頂戴した。しかし筆者はそうは考えていない。筆者が執筆した説得および評価の言葉は、適法に成立する論評であると確信している。また、「表現の自由」や人格権といった双方の権利自由を考慮に入れて衡量するという法律家の思考を離れて、一方の当事者の感情だけに寄り添ってしまっている、との趣旨のご指摘も頂戴しているが、筆者は両者の「表現の自由」を考慮した結果、このような忠告および評価をしているのであって、一方の当事者の側だけに立って「謝罪すべし」という「法的」判断を述べているのではない、ということに留意をいただければと思う)。

しかし、ここで述べられた謝罪の相手方は、先に見たとおり、こうした問題に悩む当事者ではなく「読者の皆さま」だった。このことについて、筆者は、この表現がもたらした《害》がここまで論じたこと――当事者が当事者として受けた害――で終わると考える場合には、問題を感じる。つまり、詫びる相手をずらして薄めることで、せっかく真摯な内容の謝罪文を書いたことを、自ら台無しにしていないか、とは思う。

が、筆者はもう一つ別の観点から、詫びるべき相手をこのように広くとらえる考え方も成り立つと考えている。

それは、この表現はより広く、民主主義のプロセスに歪みを生じさせる言論ではなかったか、その影響を受けるのは、広くこの表現の受け手となった人々の全体ではなかったか、とも考えられるからである。このことは、本稿中、「日当アルバイト」という表現の問題性について説明したところで少し書いていることではあるが、この部分についてあと一歩、踏み込んだ考察をするべきだと考えている。

この観点からの考察は、近日中に稿を改めて投稿したい。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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