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横浜で花開いた国産ビールの起こりと日本初の職業マンガ家が描いたビール事始め

松浦達也編集者、ライター、フードアクティビスト
(写真:ペイレスイメージズ/アフロイメージマート)

現代の食文化が形成されるまで、「日本の食」における大きなターニングポイントは何度かあった。最大の転換点は、明治維新にまつわる文明開化である。洋食など海外の食スタイルを取り入れるようになり、長らく(表向きは)禁じられていた牛肉食などに庶民が舌鼓を打つようになった。

こうした食の文明開化への功績が大きいのが、1万円札の肖像にも採用されている、慶應義塾大学の創設者、福沢諭吉である。

実は福沢は稀代の新しもの好きであり、うまいもの好きで酒好きのグルメだった(ついでに言うと、「元祖職業マンガ家」の育ての親でもあり、ある意味では日本のマンガ史においても父のような存在だったとも言えるのだが、これについてはまた別の機会に)。

「グルメ」な一面は、半生記「福翁自伝」にも記されている。1856(安政3)年頃、牛肉食が公式に解禁される前の幕末、福沢は大阪の牛鍋屋についてこんな風に記している。

「其時大阪中で牛鍋(うしなべ)を喰はせる処は唯二軒ある。一軒は難波橋の南詰、一軒は新町の郭の側にあって最下等の店だから凡そ人間らしい人で出入する者は決してない。文身(ほりもの)だらけの町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客だ。何処から取寄せた肉だか殺した牛やら病死した牛やらそんな事には頓着なし。一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが牛は随分硬くて臭かった」と振り返っている。

つまり明治維新以前から牛肉を食べる人はいたし、食べさせる店もあった。しかしそこで提供されていた牛肉は得体の知れない硬くて臭い牛肉ばかり。そんなものを口にしようという物好きは少数派。いわゆる"カタギ"の客などおらず、牛鍋店に入り浸るのは道を極めようとされるその筋の方とチンピラ、そして適塾の貧しい塾生くらいだったというのだ。

一方、同じ文明開化でも、紀元前から長く醸造され続けてきた酒のほうはそれほど抵抗感なく受け入れられた。福沢が明治維新直前の1867(慶応3)年に出版した「西洋衣食住」という西洋の生活用品を図版入りで紹介した本では、「食」にまつわる文章の半分は「酒」に充てている。

「平生の食事には赤葡萄酒(ワイン)または「シェリー」酒、そのほか「ポルトワイン」などを用ゆるなれども、式日または客を饗応する時などは「シャンパン」そのほか種々の美酒を(中略)「ビイール」という酒あり。これは麦酒にてその味至って苦けれど、胸膈(きょうかく)を開くために妙なり……」

と、長々と酒についてあれやこれや――とりわけ気に入った様子の「ビイール」について書いている。

日本人で初めて、嗜好品としてのビールを楽しんだのは、1860(万延1)年、ポーハタン号でアメリカに渡った遣米使節団だと言われている。船上で振る舞われたビールに最初は渋々口をつけたようだが「苦味なれども口を湿すに足る」と一定の満足を得つつ、その後、ハワイ、サンフランシスコと航海を続けながら各所でビールでの歓待を受けていたという。

その正使が乗るポーハタン号の別船としてともにサンフランシスコに向かったのが、かの咸臨丸であり、そこに便乗していたのが福沢諭吉らだった。福沢が『西洋衣食住』を書いたのはその7年後。その頃には「胸膈を開くために妙なり」、つまり「心の内を開くのにぴったりじゃん!」と記すほどのビール党になっていた。年を取ってからの福沢は、健康のために酒を控えるようになったというが、その晩年でさえも晩酌のビールは欠かさなかった。

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編集者、ライター、フードアクティビスト

東京都武蔵野市生まれ。食専門誌から新聞、雑誌、Webなどで「調理の仕組みと科学」「大衆食文化」「食から見た地方論/メディア論」などをテーマに広く執筆・編集業務に携わる。テレビ、ラジオで食トレンドやニュースの解説なども。新刊は『教養としての「焼肉」大全』(扶桑社)。他『大人の肉ドリル』『新しい卵ドリル』(マガジンハウス)ほか。共著のレストラン年鑑『東京最高のレストラン』(ぴあ)審査員、『マンガ大賞』の選考員もつとめる。経営者や政治家、アーティストなど多様な分野のコンテンツを手がけ、近年は「生産者と消費者の分断」、「高齢者の食事情」などにも関心を向ける。日本BBQ協会公認BBQ上級インストラクター

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