大人の日帰りウォーキング アラフィフ夫婦が1日15km、歴史と景色を楽しみながら街道を歩く旅
これは当時の建物が残っているという事よね。
そうだよ。江戸時代後期から末期の物らしいと書いているから、150年以上も前だよね。
府中の市街地にある交差点の角の一角に、江戸時代から残る高札場がある。高札場とは幕府からの知らせを伝える掲示板のあった場所。当時はラジオもテレビも、もちろんネットもないので、人々は高札場に架けられる木の板(高札)で大切な情報を得ていた。
日本橋から甲州街道を歩いてきて、初めて見る本格的な江戸時代の建造物かもしれない。良人が説明版を見ていると、辺りを見ていた由美子が言った。
何だか、向かいの建物も古そうだわ。
確かに。どう見ても江戸時代の建物にみえる。
高札場の向かいの交差点脇に立派な蔵造りの店がある。店は酒屋のようだ。創業1860年と書いてあり、江戸末期から続く店になる。中をのぞくと品ぞろえが良さそうなので、飲みやすそうな日本酒を買おうかと思ったが、今日は歩く旅であり荷物が重くなるので残念した。今日も、前回と同じ距離の15kmを歩いて八王子まで行く予定だ。だから、荷物は軽い方が良いし水ものを持ち歩くのは重い。
高札場には文字が書かれていたという事は、江戸時代の人は字を読むことが出来たのね。今では義務教育があるけれど、当時には学校教育制度は無いだろうし…、寺子屋?
寺子屋でも勉強していただろうね。江戸時代だと武士や町民、農村でも違いはあっただろうけれど、江戸末期の識字率は人口の7割とも言われていて、当時としては世界的にも識字率は高かったらしい。本も出版されているし、本を読むという事はそれだけの余暇があったと思うしね。江戸時代を知るといろいろ興味が湧いてくるよ。
良人と由美子夫婦は、日帰りで歩き繋げる街道ウォーキングを始めて三回目になる。江戸時代に造られた五街道の1つである甲州街道。今回は、日本橋から約30kmになる府中宿(東京都府中市)を出発して歩きはじめた
国道20号を甲州街道と言われるように、江戸時代に造られた甲州街道に沿うように国道20号が整備されている。府中市の市街地では国道20号が市街地をそれている為、旧甲州街道は交通量が多くないので歩きやすい。
歩きはじめて程なく、番場宿を書かれた石碑があった。番場宿と言われる集落があった場所であり、地名に残っているようだ。
その先に歩き進むと、派手なのか地味なのか、何だかわかりにくいけれど、歴史を感じさせられるかのような建物があった。「番場屋」と書いてある。居酒屋だろうか。
番場屋(ばんばや)の上に「ラ・バンバ」だって、スナック「ラ・バンバ」
え?スナック、ラ・バンバ?
よく見ると建物の隅に二階へ行く外階段があり、その階段に「スナック ラ・バンバ」と書かれた看板があった。少し小さめの白い看板には、店名とバラのようなピンクの花が2本、そして添えられるような感じで申し訳程度に音符が書かれていた。しかし、看板には余白が多く、その大きな余白にどうしてもやる気のなさを感じてしまう。お店の外観にも馴染んでいないというか、全体が黒い建物の外観に、小さな白い看板は浮いて見えた。
番場(ばんば)にちなんで「ラ・バンバ」なのねぇ。
由美子はそう思いながら建物を見ていると、斜め後ろにいた良人が「ラ・バンバ~♪」と、小さな声でつぶやきながらニコニコしている。特に意味はなく、ただツボにはまってしまったのだろう。気持ちはわからなくもないけど、60歳になろうとしているおじさんが、1人でぶつぶつと声を出しながらニコニコしているのは、どう見ても怪しいと感じる光景である。
今日は私が一緒だけれど、今の世の中では場合によっては通報案件にもなりかねない。自分が不審者であるかどうかよりも、不審者に見られるような行動をするのは良くない。よし君にしてみれば、ただ笑いのツボにはまっただけだろうけど、こればかりは仕方がない。
しかし、少し変な看板を見かけても、ただツボにはまって笑っている夫だ。ただの良い人じゃないか。世間には、こういう時にここぞとばかりに文句や妙な指摘をする面倒な人だっている。そう思えば、変な人に見えなければそれで良いよね。ギリギリでセーフかも。由美子は微笑んだ。
旧甲州街道を弁慶の伝説に由来する名前の弁慶坂を下り進むと、江戸時代のものであろう立派な門がある。この場所に移設された府中番場宿の脇本陣(幕末には本陣)を務めた矢島家の門と言われるが、現在は個人のお宅である。
矢島家は明治時代に「旧府中郵便物取り扱い」をし、矢島家の住宅は回収をされた後に郵便取扱所として使われており、現在は府中市郷土の森博物館に展示されている。
※府中市郷土の森博物館公式HP
旧甲州街道は国道20号に合流すると一気に交通量が多くなるが、この辺りは渋滞することが多い場所で車は少しずつしか進まない。国道20号はこの先でバイパスへ左折する車線と旧甲州街道方面に直進する車線に分かれるので、バイパスに向かう車で左車線がどうしても混んでしまう。
もしかすると歩く方が早いかもね。
良人が言うと、由美子はそんなことは無く車の方が早いと答える。
じゃ、あの赤い車と比べてどちらが早いか。ゴールは国道20号がバイパスに左折する場所だよ。
ハイハイ。
相変わらず車はノロノロとしか動かず、2人が歩く速さでもどんどん車を追い越していく。しかし、信号が変わったのだろうか時々は車がスーッと走り、何台もの車に追い越されてしまう。人間が歩く速度では車の速さに勝てる訳は無いけれど、それでも車は渋滞で止まるので、その間に速さを比べている赤い車に追いつきそうになる。
何だ、渋滞していると歩く速さと変わらないじゃないか。
良人が嬉しそうにつぶやいていると、車は一気に進み始めてしまいテンションが下がる。それを何回か繰り返し、バイパスに左折する信号手前で赤い車に追いつき追い越したけれど、信号が青になり、赤い車が左折するのを見送った。
まぁ、同じだったという事にしておこうか。惜しかったね。
由美子が嬉しそうに言った。
国道20号がバイパスへ左折した先、旧甲州街道はそのまま直進していく。旧街道が造られた頃には、今のように建物が多いわけでもないので無駄に曲がる必要は無く、人間が一番楽に歩ける最短距離になるように考えられて作られている。
旧甲州街道は西に向かって進んで行き、この先に流れている多摩川を渡らなければならない。江戸時代の初期には現在の甲州街道より下流になる万願寺渡船場で渡っていたが、1684年に上流にある日野渡船場に甲州街道は変更され、大正15年に日野橋が架けられている。
旧甲州街道はこの先で多摩川を渡るけれど、街道を外れて一里塚に回ろうか。ちょっと遠回りだけどね。
一里塚は街道沿いに作られたから、街道が変わって一里塚が残されたという事なのね。
旧甲州街道は日野橋交差点を渡ると多摩川に向かわずに、住宅街を抜けるように進み扇形のように丸く曲がりながら多摩川の日野の渡しに向かっているのを不思議に感じていた。何故、わざわざ遠回りしているのだろうか。
日本橋から9里目になる万願寺の一里塚は江戸初期に造られており、万願寺渡船場を通る旧甲州街道沿いに南側の塚と当時の街道の姿が残っている。北側の塚は昭和43年、1968年に取り壊された。塚は平成15年(2003年)に発掘調査され、その時に塚の上に榎が植えられている。
本物の一里塚を初めて見た。良人が言った。
ようやく江戸から九里まで来たね。由美子が答えた。
江戸時代初期の1600年代に造られた塚の上を多摩モノレールが走っていた。
アラフィフ夫婦の歩く旅<内部リンク>
1回目の話(全5話)運動に関心が無い夫と別行動、妻がひとり旅を計画したら予想外の展開になった話
2回目の話(全3話)夫からアウトドアショップへ買い物に誘われても 夫婦デートを断った妻の理由
番外編(全2話)アラフィフ夫婦の歩く旅 あなたと越えたい峠越え