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中日ドラゴンズ・Ⅾ5位・濱将乃介(日本海オセアンリーグ・福井ネクサスエレファンツ)の原点を母が語る

土井麻由実フリーアナウンサー、フリーライター
指名後、抱負とサインを色紙にしたためた(写真提供:福井NEボランティアスタッフ)

■母が語る濱将乃介

 10月20日のNPBドラフト会議で、中日ドラゴンズから5位指名を受けた濱将乃介はま しょうのすけ)選手(日本海オセアンリーグ福井ネクサスエレファンツ)。

 一人っ子で、両親からの愛情を一身に受けて育った。濱選手も常日頃から「親に感謝したい」「恩返ししたい」と口にしている。

 幼いころから野球が大好きで大好きで、一心不乱にプロを目指してきた。そして、その我が子の夢をともに追い、応援してきた母・香織さん。夢をかなえた息子を祝福するとともに、幼いころからのエピソードを明かしてくださった。

カップルのような仲よし母子
カップルのような仲よし母子

◆赤ちゃんのころ

 2000年5月3日に3224g、51.4cmで誕生した息子に「将乃介」と名づけました。あの子の父親(さん)がプロゴルファーの尾崎将司さんと歌手の山崎まさよし(本名が将義)さんのファンで「将」がいいと言い、わたしが三文字のほうがバランスがいいからと「乃介」をつけました。

 将乃介は、生まれたときから「首が座ってる?」というくらい、しっかりしていたんです。抱っこすると、ほかの赤ちゃんのようにぺたっと体に寄り添って身を委ねてくれるような感じではなくて、足をピーンと伸ばして、なんか硬くて不思議な感じでしたね(笑)。

 ハイハイもほとんどせずに生後8カ月くらいで歩きかけたんですが、ちょうどそのころ、はしかに罹かって40度の高熱が10日間続きました。わたしも生きた心地がしませんでしたが、幸い回復し、そのときに「健康以外、何も望みません」と心に誓って、将乃介にも「生きていてくれるだけで親孝行だ」と伝えて育ててきました。

3歳半のころ
3歳半のころ

◆幼少期から飛び抜けて運動能力が高かった

 全快直後にはすぐ歩けるようになって、そこからは元気があり余って…。父親が単身赴任だったので、遊び相手はずっとわたしでした。

 朝の5時から玄関で靴を履いて催促され、1日に2度3度と公園に出かけ、お弁当を持って公園の“ハシゴ”をしたりもしました。

 まぁ、“ハシゴ”はせざるを得なかったんですけどね(笑)。将乃介がよその親子がキャッチボールしているところに乱入して、そのパパを独占してしまったりするので、引き離して別の公園に行くことに…。

 自転車に乗れたのもすごく早くて、3歳のころにはコマ(補助輪)なしで乗れて、すぐに家から約2.5キロある長居公園まで往復していました。

 とにかく元気すぎてあまりに運動量が激しいので、心配になって病院に連れていったこともありました。でも、お医者さんには「ただ成長が早くて、身体能力が高いだけですよ。何も心配いりません」と言われて、ホッとしました。

4歳のころ
4歳のころ

◆好奇心旺盛で人懐っこい

 好奇心も旺盛で、なんでもやってみないと気が済まないんです。1歳半か2歳でベビースイミングに行ったとき、(アームリングなど)何もまだ着けていないのに自分でプールに飛び込んで…。あのときは本当にビックリしましたね。

 幼少期はほかにもマック体操クラブやリトミック英語、小学生になってからはテニスにサッカー、水泳、ボクシング…いろんな習い事を自分からやりたいと言い出してくるので、「何か一つでも夢中になるものに出会えたら」と思って協力してきました。(習いごとの関連記事⇒「独立リーグの野手ではナンバーワン」)

 人懐っこいのも小っちゃいころから変わりませんね。保育所に通っているころ、おじいちゃんに将棋を教わってハマッていたんです。住吉公園や天王寺公園で将棋を指しているおじちゃんを見つけると寄っていって「僕もやらせて」って、おじちゃん達の中に保育園児が一人交ざってやらせてもらったり。

 公園のテントで暮らしている人とも、一緒に座って楽しそうにしているんです。わたしのほうがドキドキだったんですが、見た目なども気にせず誰にでもくっついていくんで、あの子のおかげですごい経験をいっぱいさせてもらいましたね(笑)。

 「犬を飼いたい」と言い出したことがあったんですが、うちのマンションでは飼えなかったんです。そしたら公園で犬の散歩をしている見ず知らずの人に、「おばちゃん、散歩させて」と家までついていって、次の日には迎えにいくんですよ。その方も「しゃあないな」って愛犬を貸してくださって…。そうやって小さいときから自分で交渉していました。

 本格的な野球道具を揃える前から、近所のスポーツ用品店「太陽スポーツ」に行くのが大好きで、お店の方に「触ってもいい?」「これは何に使うの?」などと訊いて野球道具に触れながら、ずーっと帰らないんですよ。お店の方も優しく接してくださって、何時間いても嫌な顔一つされなくて…。あの子、買い物に来ている人にまで話しかけたりしていました(笑)。

 当時のスタッフの方が独立リーグの試合も見にきてくださったり、将乃介も買い物に行ったりと、今もお付き合いは続いています。

見ず知らずのおばちゃんから愛犬を“借りて”お散歩。隣は母・香織さん
見ず知らずのおばちゃんから愛犬を“借りて”お散歩。隣は母・香織さん

◆“野球遊び”をしていたころ

 まだ将乃介と二人で野球をしていたころですが、だんだんとバットスイングが速くなってきて、打ち返されたボールを捕りにいくのがしんどくなり、右利きのあの子に左で打つように言ったんです。「右で打つなら投げないよ」と。自分が楽をするために(笑)。それが左打ちになったきっかけなんです、実は。

 野球経験のある父親も「一塁に到達するのが速いから、左のほうがいいんじゃないか」と賛同してくれましたしね。

 バッティングセンターに行ったときのことです。120キロのボールを打っている父親に「僕に打たせて」と言いだしたんです。まだプラスチックのバットしか振ったことなかったのに。

 それで実際に13球ほど当てて前に飛ばしたので、父親も腰を抜かすほどビックリして「将来はプロ野球選手になる」と思ったそうです。それが4歳のころですね。

小学6年の卒業文集
小学6年の卒業文集

◆「住吉フレンド」に入団

 そして、幼稚園の年長さんになって「住吉フレンド」に入ったんですけど、体力を消耗する場所ができて助かりました。わたし自身が体力的にきつかったので(笑)。

 そういえば初日に試合形式の練習に参加させてもらったとき、打ったあとに「走れ!走れ!」と言われて、まだルールを知らなかった将乃介がピッチャーに向かって走っていったのは、今でもかわいい思い出です。

 チームでは「楽しむことが一番。長く野球を続けるには、野球を嫌いにならないことが大切だ」という方針のもと、のびのびやらせていただいたので、それが今も将乃介の中に息づいているんだと思います。

 失敗を咎めたりせず、チャレンジしたことを讃えてくれるような、褒めて育てるという監督さんでした。

 その監督さんに小学生のとき「僕は絶対プロに行きます」とボールに書いて渡したんですが、まだ持っていてくださってますかねぇ…。

小学生時代
小学生時代

◆「枚方ボーイズ」から「大阪福島リトルシニア」に

 小学生のときはとにかく野球に明け暮れて、試合会場で別の区の子とお友だちになったり、社交性と幅広い交友関係は我が子ながらすごいなと思っていました。

 中学では「枚方ボーイズ」に入団し、鍛治舎)監督(現県岐阜商高校監督)にも物怖じせず何でも訊きにいくからか、かわいがっていただきました。あの子も鍛治舎監督のことが大好きでしたね。

 その後、2年生からは「大阪福島リトルシニア」に移籍して、タイガースカップやジャイアンツカップにも出場させていただいたのが、いい思い出です。チームの体力測定では総合1位だったので、きっとプロに行けると信じていました。

「枚方ボーイズ」時代、鍛治舎監督がノートに書いてくれた言葉(「天才」という言葉は濱選手にだけ贈られた)
「枚方ボーイズ」時代、鍛治舎監督がノートに書いてくれた言葉(「天才」という言葉は濱選手にだけ贈られた)

◆高校時代

 「野球、辞めるわ」と突然連絡してきたのは、(東海大甲府高校)3年の夏でした。ずっと野球が大好きで、初めての“辞める宣言”だったのでビックリして、始発で山梨まで飛んでいきました。

 久々に会った将乃介は覇気もなく、別人のように負のオーラに包まれていてショックでしたね。朝握ったおにぎりを手渡して「どんな選択をしても味方だし、応援するよ」とだけ伝え、わたしも仕事があったので、その日の練習試合の1打席だけ見て帰りました。

 そのとき、わたしが首に巻いていた青いタオルを「ちょうだい」というので渡したら、それを去年までずっと使っていたんです。青い色が(洗濯を重ねて)白くなるくらいまで…。ほかのタオルも買ってあげているのにね。あの子の中で、何か思うところがあったんでしょうかね。

 高校時代、先生に提出するアンケートの「他人に誇れること」という欄に、「お父さんとお母さんは自分のことを大切にしてくれています。自分もお父さんとお母さんは大好きです。これだけは他人に誇れます」と書いてくれました。

 「誇れること」になかなか親のことは書かないと思うので、こういうところは将乃介っぽいですね。

中学時代
中学時代

◆高知ファイティングドッグスへ

 卒業後は「1年でも早くプロに」と独立リーグに進むことを決めて、高知ファイティングドッグス四国アイランドリーグplus)では駒田徳広)監督に1年目からレギュラーで使っていただきました。

 1年目も2年目も阪神の2軍との試合で三塁打を打って、3年目のソフトバンク戦でもけっこう打てたりして、(スカウトが)見てくれているだろうと思ったんですけど、声もかからなくて…。プロに行くって、本当に厳しいんだなと思いました。もう一生プロには行けないんかな、努力は報われないのかなと家族で落ち込みましたね。

 また、左投手が増えているからプロは右打者を求めているというのを耳にしたりして、「わたしが左にしちゃって、ごめんなさい」と、申し訳なく思ったりもしました。

小学生時代
小学生時代

◆独立リーグ最後の打席で予告ホームラン

 でも、あの子は努力を続けてくれたんです。今年、福井に移って、いい出会いもあって開花させていただきました。

 最後の試合(10月4日)では本当に感動しました。将乃介から事前に「最後の打席はホームラン狙うわ」とLINEが来て、わたしも「将ちゃんならいける」と返したんです。すると、目の前で本当にホームランを…!もう嬉しくて嬉しくて。

 試合後にそのボールをくれて、「すごい!予告ホームランや」って、わたしがあまりにも喜ぶので「俺、もしプロに行けたら、第1号ホームランのボールをママにあげるから」って約束してくれました。

 小さいころから周りの保護者には「将ちゃんはママ大好きやな」「ママが来たら打てるよ」って言われていたんですけど、独立リーグの最後にも打ってくれて本当に嬉しかったですね。

小学生時代
小学生時代

◆「辰」「5」…中日ドラゴンズ5位指名の縁

 将乃介からは噂話や人の悪口は聞いたことがないし、引きずらない性格です。自己肯定感の高い子にしたいと願い、得意なことを伸ばせばマイナス面は消えていくはずだと信じて育ててきました。

 それと、人と積極的に関わる姿勢や人好きな性格は、小中学校の先生や周りの保護者の方々にも恵まれたからこそだと思います。地域の方々には一緒に育ててくださったことを本当に感謝しています。

 学校の先生方の中には、独立リーグの試合の応援に何度も来てくださった方々もおられるんです。本当にありがたいことです。

 厳しい道に進んだことで学びの多い人生になったと思いますし、わたし自身が見習うこともあったりで、本当に成長したなぁと実感しています。親子ともども野球には感謝していますね。

 辰年の5月生まれのあの子が中日ドラゴンズさんから5位指名していただけたのは、ご縁を感じます。これからも周りの人への感謝を忘れず、将乃介らしく頑張ってほしいです。

 将ちゃん、ほんまにおめでとう。

(中日ドラゴンズ5位指名・濱将乃介の母・香織さん 談)

5年前、当時14歳だった従妹が描いてくれた竜の絵。予知?
5年前、当時14歳だった従妹が描いてくれた竜の絵。予知?

(本文中の写真の提供は母・香織さん)

【濱 将乃介(はま しょうのすけ)】

2000年5月3日生/大阪府

右投左打/181cm・81kg

東海大甲府高校―高知ファイティングドッグス(四国IL)

【濱 将乃介*今季成績】

58試合 打数213 安打67 二塁打16 三塁打5 本塁打6 打点36

四球43 死球5 三振25 併殺打1 盗塁37 盗塁成功率.771

打率.315 出塁率.439 長打率.521 OPS.960

*タイトル…最多盗塁年間MVP

【濱 将乃介*関連記事】

阪神タイガース・ファームとの練習試合

元盗塁王・西村徳文氏の愛弟子

6ツールプレーヤー

独立リーグではナンバーワン野手

「チームカラーは青色」

NPBでも盗塁王を獲る!師匠と同じくドラフト5位

フリーアナウンサー、フリーライター

CS放送「GAORA」「スカイA」の阪神タイガース野球中継番組「Tigersーai」で、ベンチリポーターとして携わったゲームは1000試合近く。2005年の阪神優勝時にはビールかけインタビューも!イベントやパーティーでのプロ野球選手、OBとのトークショーは数100本。サンケイスポーツで阪神タイガース関連のコラム「SMILE♡TIGERS」を連載中。かつては阪神タイガースの公式ホームページや公式携帯サイト、阪神電鉄の機関紙でも執筆。マイクでペンで、硬軟織り交ぜた熱い熱い情報を伝えています!!

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