角栄と真逆の慎太郎会見は武士(もののふ)の恥
フーテン老人世直し録(287)
弥生某日
石原慎太郎元東京都知事は3日に日本記者クラブで記者会見を開き、冒頭「田中角栄さんが脳梗塞に倒れられた後、ロッキード裁判という全くインチキな冤罪を憤懣やるかたなく一言もしゃべらずに亡くなられた心境は思えば思うほど痛ましい気がする。自分は死ぬまで黙っているつもりはないし、黒白をつけるため会見を開いた」と語った。
ところが会見内容は、黒白をつけるどころか都知事としての責任から逃げようとするだけで取材陣の疑問に答えず、責任は小池東京都知事をはじめ他人にあるかのごとき説明に終始した。これは田中角栄とは真逆の人間であることを物語る。そして政治家として角栄氏は一つの極を形成したが、慎太郎氏はただの「お騒がせ屋」に過ぎないことを証明した。
この程度の人間にお追従を言い持ち上げてきた政治家は不明を愧じ、「武士(もののふ)」としての生きざまと作法を教えてやるべきである。角栄氏はロッキード事件という「でっち上げ」で致命的な打撃を受けながら、検察やマスコミを批判するのではなく、司法と政治の場で死力を尽くして最後まで戦った。
フーテンは縁あって検察記者としてロッキード事件を取材し、その後政治記者となって田中角栄氏に密着し、また知事になる前の石原慎太郎氏も何度か取材したことがある。そして冷戦崩壊直後からアメリカ政治を取材したことで日米政治構造の中での2人を立体的に見ることが出来た。
石原慎太郎氏の著書『天才』(幻冬舎)は、田中角栄氏の一人語りの体裁をとりその人生を描いたが、肝心のロッキード事件には「大ウソ」がある。アメリカの謀略で逮捕されたかの如くに書かれているが、田中を逮捕させたのは三木武夫元総理の謀略であり、アメリカの謀略ではない。
今でこそ慎太郎氏は「三木武夫という愚かな政治家が居た」と書いているが、その頃は三木の親衛隊長を務め「反田中」の急先鋒であった。田中の「日中国交正常化」に反対して中川一郎、渡辺美智雄らを担ぎ政策集団「青嵐会」を結成したが、石原幹事長の下で裏方を務めたのが豊洲移転問題のキーマンである浜渦武生元東京都副知事である。ハマコーこと浜田幸一氏は事務局長を務めた。
フーテンが初めて石原慎太郎衆議院議員を取材したのは1983年1月、ロッキード事件の一審判決が秋に予定されていたことから自民党の50人以上の政治家に「田中角栄とは何か」をインタビューした中の一人だった。「バルザックの人間喜劇だな」というのが答えで、ずいぶん上から目線で傲慢な答え方だという印象を受けた。
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