野党とメディアは「政治改革」の真相を理解していないと思う
フーテン老人世直し録(782)
極月某日
石破総理の所信表明演説に続く衆参の代表質問と予算委員会が行われ、少数与党が誕生して初の国会論戦が始まった。前にも書いたが、フーテンが現役の記者として政治を取材した「55年体制」では、まともな国会論戦を見ることがなかった。
野党が政権を取ろうとしなかったためである。野党は政権を自民党に委ね、自分たちは憲法改正阻止の3分の1の議席を取れば良いと考えていた。野党第一党の社会党は過半数の候補者を擁立せず、全員が当選しても政権を取れないようにしていた。
しかし野党はそれを見抜かれないように、NHKがテレビ中継する予算委員会では政府自民党を激しく攻撃する。激しく攻撃するがそれは大半が予算とは関係のないスキャンダル追及だった。予算を巡る議論などないのが予算委員会だった。
そして野党は審議を拒否した。国会は空転し、メディアはそれを「与野党激突」と報道するが、与野党は激突などしていない。空転の間に自民党と社会党の幹部が1対1の秘密の交渉を行い、100本余りの法案を種分けして、何を成立させるかを決めていた。つまり法案は国会審議とは無関係に決まっていた。
なぜなら「事前審査制」という仕組みがあり、政府が作成した法案は国会提出前に自民党の中だけで審査され、修正が施されると自民党議員に党議拘束がかけられる。多数党の自民党が賛成すれば法案は必ず成立する。だから野党との間で行われる国会審議は出がらしのお茶、気の抜けたビールのようなもので意味がなかった。
ところが石破政権が少数与党になったことで、与党は野党の賛成を得ない限り1本も法案を成立させることができない。だから今、与党は前回選挙で躍進した国民民主党と法案の国会提出前に協議している。つまり「事前審査制」は崩れた。
法案提出前の修正に関与できなかったかつての野党は、実力で法案成立を阻止するパフォーマンスをやった。しかし「事前審査制」が崩れた今、野党の一部と協議のうえ提出された法案を実力で阻止するのはおかしな話になる。
とにかく国会論戦に変化が表れると思い、フーテンはそれを期待した。代表質問は事前に質問書と答弁書が用意され、官僚が書いた原稿を読み上げるだけだが、予算委員会では総理は原稿なしで答弁する機会が増える。
するとこれまでの総理に比べ、石破総理に答弁能力の高さを感じた。謙虚な物言いに終始しながら、しかし自分の意見をしっかり主張して野党に譲歩しない。特に「政治とカネ」の問題でそれが強く印象付けられた。
野党は「企業・団体献金の禁止」を主張する根拠として、93年の細川護熙総理と河野洋平自民党総裁の協議で、政党交付金を認める代わりに5年後の企業・団体献金の禁止を決めたと主張する。しかし石破総理は「そのような事実はない」ときっぱり否定した。
石破総理は当時自民党の若手議員として「政治改革」の渦中にいた。一時は自民党を離党するなど人生を賭けた経験をしている。従ってその言葉には当事者としての重みがある。フーテンも国民を騙し続けた「55年体制」の政治を変えるため、国会審議を専門に中継するテレビチャンネルの必要性を訴えて「政治改革」の議論に参加した。
その経験からフーテンは石破総理の考えと同じで、野党やメディアは作られたストーリーを信じ込まされ、90年代初頭の「政治改革」の真相を理解していないと思う。ストーリーでは、89年のリクルート事件、92年の東京佐川急便事件を受けて、政治腐敗が問題となり、カネのかからない政治を実現するために「政治改革」が行われとされる。
フーテンの知る限りこれは国民向けに作られた真っ赤な嘘である。真相は戦後の日本が経済繁栄を成し遂げた吉田茂の「軽武装・経済重視」路線が、冷戦時代の終焉を迎え、有効でなくなってきたからだ。
吉田はマッカーサーの要求で憲法に9条2項を入れて軍隊を持たないことにした。朝鮮戦争が始まりアメリカから再軍備を要求されると、それを拒否して日本が武器弾薬を米軍に提供し、巨額の戦争特需を得たことから「軽武装・経済重視路線」は日本の基本政策になった。
それを成功させるため、吉田は9条を国民に信じ込ませ、野党に9条擁護の役割を負わせ、アメリカが日本に軍事的要求を強めれば、政権交代が起きて親ソ政権が誕生するとアメリカに思わせた。しかし野党は憲法改正に必要な3分の1の議席を狙うだけで政権交代は狙わない。
万年与党と官僚と財界が一体になることで、日本は軍事に金を使わず、高度経済成長を実現した。これにアメリカは騙され、85年に日本が世界一の債権国、アメリカが世界一の債務国になる。アメリカは日本経済の構造を探り、日本に政権交代がないことに注目した。
85年にアメリカ議会のスタッフが日本の国会を調査に訪れた。政治家、政治学者、ジャーナリストがアメリカの調査団と会談した。フーテンも参加したが、アメリカ側は派閥政治とは何かを聞いてくる。それに日本側は答えられなかった。
翌86年、フィリピンのマルコス政権が倒れた。倒した背後にアメリカがいた。アメリカは「マルコス独裁30年を許さない」と言った。87年、韓国の全斗煥政権がやはりアメリカによって退陣させられた。いずれも親米反共政権である。しかしアメリカは民主主義でない政権を認めなかった。この時点で自民党は32年間も長期単独政権を続けていた。
日本は政権交代を可能にする仕組みを作らなければならなくなった。最初に動いたのは自民党の金丸信と社会党の田辺誠、そして経団連会長の平岩外四である。自民党を田中派とそれ以外に分け、社会党右派と田中派で1つの政党を作り、それ以外の自民党でもう1つの政党を作る。前者が分配重視の政党、後者が成長重視の政党を目指す構想だった。
しかしこの構想は92年の金丸逮捕で頓挫し、その後に後藤田正晴が中心となり選挙制度を中選挙区制から小選挙区制に変える構想が出てきた。しかし選挙制度を変える話は国民に難しすぎて理解されない。それをカネ絡みの話にすれば国民を説得できるというのが後藤田の考えだった。
そこでリクルート事件や東京佐川急便事件が「政治改革」と結び付けられる。そしてカネをかけない政治にするため、中選挙区制を小選挙区制に変えると言い始めた。また中選挙区制で当選してきた議員が小選挙区制に賛成するはずはないから、議員を賛成に回らせるため、財界に「政治改革に反対すれば献金を打ち切る」と脅しをかけさせた。
だから平岩外四は財界から自民党に対する献金をストップした。しかしそれは将来にわたって「企業・団体献金を禁止する」意味ではなかった。実はフーテンの主張する「国会テレビ」に経団連と連合が出資するアイデアが浮上した時、ある自民党幹部は「小選挙区が実現すれば財界は献金を再開する約束になっている。その前に上前を撥ねるな」と言ってきた。
この記事は有料です。
「田中良紹のフーテン老人世直し録」のバックナンバーをお申し込みください。
「田中良紹のフーテン老人世直し録」のバックナンバー 2024年12月
税込550円(記事2本)
2024年12月号の有料記事一覧
※すでに購入済みの方はログインしてください。