阪神タイガース育成1位・松原快(富山TB)の夢は石井大智、湯浅京己、椎葉剛らとの独立リーガーリレー!
■母をドラフト会見場に招待
「親子そろって号泣してたね」。
ドラフト会議直後、松原快投手(阪神タイガース育成1位)は周りの人々からそう言われたと明かす。
10月26日のドラフト会議の日、富山GRNサンダーバーズの候補選手や球団関係者、メディアとともに指名の瞬間を待っていた。その会場に松原投手は母・雅美さんを招待していたのだ。
「日ごろ、感謝を伝えるとかはしてないんですけど、今年はラストイヤーって決めていたので、(指名されて名前を)呼ばれても呼ばれなくても、その場にいることが価値のあることかなと思って来てもらったんです。この経験を恩返しのつもりで」。
小学4年のときから女手ひとつで自分と2つ下の妹、7つ下の弟を育ててくれた母。紆余曲折もあって心配をかけたが、それでもいつも一番に応援してくれていた母。「経験」だけに終わらず指名をもらえ、恩返しができたと松原投手は安堵した。
■憧れの球児は富山第一高校の捕手
松原投手が野球を始めたのは小学3年のとき。その2年前、近所のお兄ちゃんが富山第一高校で捕手として活躍していた。その球児に憧れた快少年はすぐにでも野球を始めたかったが、「宇奈月ヤンキース」は当時3年生からしか入団できなかったため、2年生まではサッカーをしていた。
「サッカーの腕前はたいしたことなかった(笑)。ゴールキーパーでした」。
いよいよ3年生になって入団し、5年生からはキャッチャーに就いた。ピッチャー希望者が多い中、快少年は違った。憧れの人がキャッチャーだったことと、投げるのが得意で盗塁を刺すのが楽しかったことから「ピッチャーなんて、したいと思わなかった」と、喜んでキャッチャーを引き受けた。
「小学校や中学校って、配球とかもないですし」と、中学で硬式野球チーム「富山東部ボーイズ」に進んでもキャッチャーを続けた。外野、内野、そして人数が足りないときにたまにピッチャーもしたが、それでもピッチャーに憧れるということは「まったくなかったですね」と振り返る。
小学1年時から目標は「キャッチャーで富山第一に入って、甲子園に行く」で、ブレることはなかった。
■高校で挫折を味わう
念願の富山第一に入学し、1年春からベンチ入りした。ポジションはもちろんキャッチャーだ。しかし、そこからが苦悩の日々だった。これまではそんなに必要とされなかった「配球」が重要視され、キャッチングやブロッキングなどにも課題が出てきた。
右足甲を疲労骨折して夏はベンチに入れず、秋に新チームになってからは出場機会を求めて外野手にも挑戦した。しかし、さまざまな軋轢があり環境にもなかなか馴染めず、続けていくことが困難になった。
思い悩み、とうとう12月に野球部を辞めた。
とともに転校を決意した。というのも、高朋高校に進んだ中学の同級生が「もったいない。転校してでも野球をやったほうがいいよ」と連絡をくれたから。そもそも高朋は中学時代に一番熱心に誘ってくれた高校でもあったのだ。
そこで転入届に承諾が要るからと、初めて退部したことを母に話すと「ビックリというよりブチ切れてましたね(笑)」。しかし、息子の思いを理解してくれた。
■転校してピッチャーに転向
2年生から転校し心機一転、野球部に入部すると、当時の森崎直樹監督から「おまえはキャッチャーよりピッチャーだ」と言われた。もともとピッチャーで獲りたかったのだと、そのとき初めて知らされた。
「正直、もうキャッチャーでは先がないというか、やってても楽しくない。バッティングもたいしてよくないし、走るのも速くない。でも唯一、投げるのは得意だし、体の強さだけはあったんで」。
ピッチャーをやっていこうと決めた。
だが、高校野球は転校すると1年間は公式戦に出場できない。そこからはひたすら練習の日々だ。
「ずっと強化期間です。永遠の冬(笑)。冬場の練習が1年続く感じ。でも逆にいえば、その1年間がよかったんですよね。大会もないから変なプレッシャーがない。夏前にはメンバーのバックアップはしましたけど、それ以外は強化しまくりました」。
当初は130キロだった球速が、1年後には142キロにまでアップした。野手が順番に投げるという“本職の投手”がいないチームだったこともあり、3年春の大会では背番号1をもらえた。
ベスト4という成績を残したが、その直後、体調を崩した。
■東海大相模高校の森下翔太選手と対戦
復帰したときにはほかの投手の台頭もあり、背番号は10になった。そんな折、招待試合で東海大相模高校と対戦した。そのとき中継ぎで1打席対戦したのが、1学年下の森下翔太選手だった。タイガースのルーキーで、侍JAPANでも活躍している森下選手だ。
「そのときから有名でした。『あ、森下だ!』みたいな。森下だけじゃなくて、みんなすごかったですね」。
その森下選手をショートフライに打ち取ったが、まさか6年後にプロで同じチームになるとは思いもよらない。
夏の大会も背番号は10のままで、ファーストとピッチャーを兼任した。「ファーストのほうが多かったですね、出番としては」と、ピッチャーとしては3イニング6失点と結果は残せなかった。
チームは決勝で涙を呑み、あと一歩で甲子園には届かなかった。相手の高岡商業高校にいたのが島村功記選手で、1学年下には大島嵩輝投手もいた。こちらも後にサンダーバーズでチームメイトになるのだから、縁は不思議なものだ。
■初めて頭をもたげた「プロ野球選手になりたい」という思い
その後、「燃え尽きるっていうよりも、もう野球は諦めた感じ」と、松原投手は消防士の道を選択する。ところが、社会人チームのロキテクノベースボールクラブ(現ロキテクノ富山)から誘いの声がかかった。
「野手でと思ったんですよ。夏、たまたま当たって打率5割くらいあったんです」。
しかし、ロキテクノの要望は「投手で」だった。ここで松原投手の運命は大きく動く。
それまで一度も「プロ野球選手になりたい」と願ったことはなかった。「行けるなんて思ってないですもん」と、そのレベルにないことは自分が一番わかっていた。ところがロキテクノに入り、試行錯誤したことによって、「もっとうまくなりたい」と向上心がわいてきた。
そして、目覚めたのだ。プロを目指そう、と。そのために独立リーグに移籍した。(詳細記事⇒150キロのスリークォーター・松原快は元阪神・藤田太陽の愛弟子)
投手の資質を見抜いてくれた高朋の森崎監督によって導かれた道は、ロキテクノの藤田太陽監督によってさらに開けた。
■自己最速の156キロが出た
サンダーバーズ入団後、どんどん進化した。1年目に指名漏れを経験すると、その翌日には次のドラフトに向かって即行動していた。昨年の失敗をすべて今年に生かし、2年目はまるで別人のように生まれ変わった姿を見せた。(詳細記事⇒指名漏れの悔しさから進化!NPB戦で無類の強さを誇る156キロ右腕・松原快)
「今年は本当にドラフトだけを意識したシーズンでしたね」と、技量を伸ばすこと以外に“戦略”も練った。「ドラフト直前の印象が指名や順位に影響する」とスカウトが口をそろえるように、春先よりシーズン終盤のデキが重要になることがわかっていた。
「1年目は最後に失速しちゃったんですよね。最後のNPBとの選抜試合でもアピールできなかった。だから8月9月に上げていかないとと思って、春先に注目されなくても気にせず、しっかり状態を上げていきました」。
その言葉どおり、日を追うごとに月を追うごとに球の威力や安定感が増していった。そして最後のNPBとの試合(9月20日 埼玉西武ライオンズ戦)では自己最速の156キロを出した。
■グランドチャンピオンシップで崩れる
しかし、野球は怖ろしい。この156キロを出したことが落とし穴になるとは…。
独立リーグ日本一を決めるグランドチャンピオンシップ(9月29日 坊っちゃんスタジアム)で、同点に追いついた直後の八回表に登板した松原投手は、シーズン中には見せたことのない姿を露わにした。野選や暴投も絡んで1回3安打1四球5失点。
シーズン防御率0.89、対NPB戦では同0.00とリーグ随一の安定感を誇っていた松原投手が、こんなに打ち込まれるとは。誰も予想だにしていなかった。
だが、これを予見、心配していた人がいた。タイガースの担当スカウト、筒井和也氏だ。グランドチャンピオンシップを迎える前、面談のときにこう警告されたという。
「ああいう156とか出たあとは、自分のバランスを崩しやすいから気をつけろ」と。
選手として13年、スカウトとして7年、さまざまな選手を見てきた筒井スカウトの頭の中には、多くの事例がファイルされている。かくして、筒井スカウトが危惧したことが起こってしまった。
■ターニングポイント=今後の課題
松原投手は振り返る。
「グラチャン前の時点で、バランスを崩してるっていう感覚はなかった。シーズンのいいときに比べると制球はちょっと荒れてきたなって感じはあったけど、今年ずっとポジティブに考えてうまくいってたんで、『いいときもあれば、悪いときもある』くらいの感じでいて…」。
とはいえ、グランドチャンピオンシップでは投げている感覚は悪くなかったという。
「ボールは走ってるんです。けど体が思うように動かないというか、自分自身を制御できない、操りきれていない感じで。初めてでしたね」。
今でも謎が残り、「これは自分の中でも詰めていかないといけないとこ」と話す。「やっぱりあそこがターニングポイントですね、156キロが。いい意味でも悪い意味でも」と今後への課題とした。
だがグランドチャンピオンシップ後、1週間かけてしっかりと修正した。カット気味になっていたストレートを、いいときの状態であるシュート回転で吹き上がるような軌道に戻せた。
■「豪快!ナイスガイ!松原快!」
超々々ポジティブだ。グランドチャンピオンシップ直後、口もききたくないほど落ち込んでいるだろうと、声をかけるのを躊躇うこちらを慮り、すぐに連絡をくれた。そして明るく、先を見据えた話をしていた。
ドラフト前の指名があるかわからない段階で、NPB球団の新人合同自主トレに備えた練習をしていたことも、筒井スカウトが明かしている。(詳細記事⇒湯浅京己の古巣、富山GRNサンダーバーズから阪神タイガースに仲間入り!「旬の男」松原快が育成1指名)
また、周りの人への思いやりが深い。ドラフト後、指名漏れして涙する選手たちに寄り添い、励ましていた。自分のことだけで浮かれてもおかしくはないのに、「去年、自分も同じ思いをしたから」と気を配る。
さらに「あいつらの今日からの1年、見ててやってください」と、こちらにお願いまでしてくる。非常に温かい漢だ。
■富山出身選手のNPB入りは球団初
そんな人柄だから、永森茂球団社長も松原投手の指名をことのほか喜ぶ。
「去年からずっと『地元選手がまだNPBに行ってない。おまえが1番に行ってくれ』って話していた」。
悲願を成就してくれた松原投手に感謝する永森社長だが、指名の瞬間、その目には光るものがあった。
しかし初の富山出身選手のNPB入りなのに、意外と町を歩いていても気づかれないという。「大谷(輝龍=サンダーバーズから千葉ロッテマリーンズ2位指名)はすぐ『大谷さんですか』って言われるんですけどねぇ」と、苦笑いする。
それでも実家の近所の人たちにとっては「おらが町のヒーロー」だ。「農家の人たちがおすそ分けを持ってきてくれます。昨日はネギが30本くらい来て(笑)」と嬉しいお祝いをしてくれる。家族にも方々から祝福の連絡が来ているという。
■虎戦士の一員として
いよいよ自身も虎戦士になる実感がわいてきた。ドラフト後に行われた日本シリーズはテレビにかじりつき、これまでとは違った特別な思いで観戦した。
「やっぱり“湯浅の1球”でしょう」とサンダーバーズの先輩にあたる、同い年の湯浅京己投手のピッチングにはしびれたという。
「だって急に出てきたじゃないですか。えっみたいな。でも1球で終わって流れ作って…さすがですね」。
いつかは自分もあのマウンドで…。NPBに入った以上は、当然目指したい場所だ。
岡田彰布監督については「ベンチでどっしり座ってるっていうイメージ。パインアメ食べて(笑)」とチョケたあと、「やっぱり継投とかうまいなっていうのは感じます。采配もうまいから、選手もやりやすいんだろうなと思いますね」と敬意を表する。
ファームの和田豊監督も、対戦したときに「オーラがある」と感じたという。来季から指導を受けるのを楽しみに心待ちにしている。
■オンリーワンになる
タイガースには石井大智投手(高知ファイティングドッグス)、湯浅投手、椎葉剛投手(徳島インディゴソックス)と独立リーグ出身投手が多くいる。
「そういうピッチャーたちで後ろを、勝ちパターンで繋げていけたらなと思います」。
NPBを目指す独立リーガーたちにとっても、夢のある話だ。ただし、それには自身が一日も早く支配下選手にならねばならないことは重々承知している。
目指すのは「オンリーワン」だ。「〇〇投手のような」ではなく、「自分にしかできないことってあると思うので、オンリーワンになりたいですね」と、唯一無二の投手として“豪快”なピッチングを見せていく。
【松原快(まつばら かい)*プロフィール】
1999年8月24日/富山県黒部市
180cm・82kg/右・右
高朋高校―ロキテクノ
最速156キロ
2種類のスライダー、シンカー
【松原快*今季成績(公式戦)】
26試合 30・1/3回 5勝0敗
被安打17 被本塁打0 奪三振34 与四球11 与死球4
失点3(自責3) 防御率0.89 奪三振率10.09
【松原快*今季成績(対NPB)】
6試合 9回
被安打0 被本塁打0 奪三振12 与四球5 与死球1
失点2(自責0) 防御率0.00 奪三振率12.00
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