田中元総理と「雪国対決」を戦った野坂昭如さんとの思い出
フーテン老人世直し録(190)
極月某日
野坂昭如さんが逝った。安保法制が強行可決された年にまた胸にズシンとくる訃報を聞かされた。フーテンには32年前に雪の新潟で田中角栄元総理を相手に選挙戦を戦った思い出が甦る。世間は野坂さんに「田中金権政治批判」を期待したが、野坂さんはあの時も「飢えた子どもの顔は見たくない」と反戦を訴えていた。
フーテンが野坂さんと知り合ったのはイラストレーターの黒田征太郎さんを介してである。70年代初めの新宿ゴールデン街、喧嘩と議論が渦巻く中で野坂さんは静かに酒を飲んでいた。フーテンはテレビ・ディレクターなりたての若造で、野坂さんや黒田さんから酒の飲み方や男の生き方を吸収しようとしていた。
その野坂さんが雑誌『面白半分』に永井荷風の作とされる「四畳襖の下張」を掲載した事から刑事被告人となる。フーテンは「被告人・野坂昭如」と題するドキュメンタリー番組を作り、判決が下るまでの野坂さんを密着取材した。
野坂さんは原発予定地に指定され村人全員が立ち退いた新潟県刈羽村に行きたいと言い、我々はその廃村で野宿しそこで野坂さんに「終末論」を語ってもらう事にした。暗闇の中でたき火を囲みウイスキーを飲みながらフーテンがインタビューすると、野坂さんは「暗闇を知らない子供たちが増えていくのが怖い」と言った。自然に逆らう人間の生き方に心底危機感を抱いていた。
その後「アドリブ倶楽部」というラグビーチームを作り週に一度上智大学のグラウンドで練習する関係になる。夏に信州で合宿をすると、野坂さんは缶詰やお菓子を大量に持ってきた。思えば「焼け跡闇市派」には「合宿」をする青春時代などなかった。顔には出さないが遠足に行く子供のような喜びを感じているように見えた。
事情があってフーテンは「アドリブ倶楽部」を辞め、その後しばらく顔を合わせる機会はなかった。それが再会したのは1983年、ロッキード事件の一審判決で田中角栄元総理に有罪判決が下った直後である。
野坂さんは二院クラブから参議院選挙に出馬して国会議員になったばかり、フーテンは中曽根内閣の後藤田官房長官を担当する政治記者だった。永田町では全野党が「田中辞職勧告決議案」を国会で議決しようとしていた。
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