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大坂夏の陣。戦場では死なず、生き延びたと噂される3人の武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田信繁。(提供:アフロ)

 慶長20年(1615)の大坂の陣で豊臣家は滅亡し、豊臣方に与した武将の多くは逃亡したり、無念にも討ち死にした。しかし、死んだとされる武将のなかには生き延びたと噂された武将がいたので、うち3人を取り上げることにしよう。

◎豊臣秀頼(1593~1615)

 大坂城が落城した際、秀頼は母の淀殿ともに亡くなったというのが通説である。しかし、『幸村君伝記』には、真田信繁が秀頼を連れて、薩摩に逃亡したと記す。リチャード・コックスの書簡にも、秀頼が薩摩、琉球に逃れたと書かれている。

 鹿児島市下福元町には、秀頼の墓と伝わる塔がある。また、秀頼は大坂城を脱出し、子の国松とともに日出藩主・木下延俊に匿われたとの説もある。とはいえ、たしかな史料で秀頼の生存が確認されたわけではないので、やはり秀頼生存説は成り立たないだろう。

◎真田信繁(?~1615)

 信繁は、越前松平藩の西尾宗次に討たれた。首実検の際、おじの信尹が信繁の首を確認したが、見分けがつかなかったという説がある。秀頼の項で触れたとおり、信繁は秀頼とともに薩摩に逃れたといわれ、それゆえ徳川方は牢人狩りを必死に行ったという。

 信繁が生きていたという噂は、いくつか残っている。豊臣家滅亡後、信繁の馬の口が橋本(和歌山県橋本市)に住む奈良屋角左衛門のもとを訪れ、信繁が生きていることを伝えたという。とはいえ、信繁が生きているというのは単なる噂に過ぎず、戦場で討たれたというのが正しいようだ。

◎明石掃部(生没年不詳)

 掃部は宇喜多秀家の家臣だったが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で敗れ、牢人生活を送っていた。大坂の陣では豊臣方に与したが、戦場から離脱して逃亡したという。掃部の生死に関しては、討ち取られたという説、生き延びたという説がある。

 『山本豊久私記』などは、掃部が九州に逃れたとする。『戸川家譜』などには、掃部が南蛮に逃亡したとの説を載せる。ほかにも『土佐国諸氏系図』では、掃部が土佐国に逃げたとするが、徳川方の武将の家伝などには討ち取られたとあるので、生き延びたとは考えにくいのではないか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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