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外食、中食、内食……。言葉はいつ、どこからやってきた?

松浦達也編集者、ライター、フードアクティビスト
(写真:ペイレスイメージズ/アフロイメージマート)

駅弁の中食使用の先駆けだったサザエさん

新聞マンガとしての『サザエさん』は折に触れ、時代の空気を上手に切り取っている。ときには時代の先を行くことさえあった。1969(昭和44)年3月21日付の朝刊に掲載された回などはまさに時代の先を行っていた。

この回が掲載されたのは、飛び石連休の初日。サザエは、朝、行楽に向かう人混みでごった返す東京駅で駅弁とお茶を家族の人数分購入する。てっきり家族全員分の行楽弁当を買ったのかと思いきや、実はお出かけではなく家事をサボるためにわざわざ東京駅まで駅弁を買いに出かけたというもの。

つまり今で言う「中食」として駅弁を使っているのだ。当時は家庭で食事を作らずに済ますと言うと、出前の店屋物と相場は決まっていた。精肉店で揚げたコロッケなどを買い、おかずの足しにすることはあっても、「中食」という概念はなかった。

では日本において「外食」「内食」「中食」といった概念はどういう流れで確立されていったのか。

3つのうち、概念としてもっとも古いのは「外食」だ。街道筋の茶屋などで旅人相手に団子などを供する店に始まり、江戸時代に入ると日常に外食が入ってきた。外食産業の発展は天下泰平あってこそ。いつの時代も変わらぬ真理である。

きっかけは1657(明暦3)年に起きた明暦の大火だった。10万人以上の死者を出したと言われるこの大火災は、日本の「食」においてひとつのターニングポイントとなっている。

大火後、江戸市中の復興事業に携わる職人が各地から集められた。過酷な肉体労働は腹が減る。そんなニーズに応えるように、職人相手に煮物や簡単な食事を提供する外食産業「煮売茶屋」が生まれた。

ここで江戸の庶民が日常における「外食」を手にし、外食は急速に発展していく。居酒屋が誕生し、屋台文化が発展、いまの鮨につながる「早ずし」などが生まれる。明治維新に伴う肉食解禁や洋食文化の流入も、「外で食べる」流れを加速させたのは間違いない。

ところが、「外食」「内食」「中食」という言葉の確立については、そう一筋縄ではいかないところが面白い。

「外食」「内食」「中食」という新しい言葉

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編集者、ライター、フードアクティビスト

東京都武蔵野市生まれ。食専門誌から新聞、雑誌、Webなどで「調理の仕組みと科学」「大衆食文化」「食から見た地方論/メディア論」などをテーマに広く執筆・編集業務に携わる。テレビ、ラジオで食トレンドやニュースの解説なども。新刊は『教養としての「焼肉」大全』(扶桑社)。他『大人の肉ドリル』『新しい卵ドリル』(マガジンハウス)ほか。共著のレストラン年鑑『東京最高のレストラン』(ぴあ)審査員、『マンガ大賞』の選考員もつとめる。経営者や政治家、アーティストなど多様な分野のコンテンツを手がけ、近年は「生産者と消費者の分断」、「高齢者の食事情」などにも関心を向ける。日本BBQ協会公認BBQ上級インストラクター

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