大人の日帰りウォーキング 東京から旧街道を日帰りで歩き繋いで群馬県へ、1日20kmを歩くひとり旅
電車の移動もかなり長くなってきた。
JR上野東京ラインは都心からさいたま市を抜けて軽快に走り続ける。途中で1回の乗り換えをし、約1時間半かけてやってきたのは群馬県にあるJR新町駅。
子育てを卒業する頃より登山や街道歩き等の歩く旅を始めて楽しんでいる。江戸時代に造られた五街道の1つである中山道を日帰りで歩き繋げる旅をしており、今回で7回目になる。ここまで歩き繋いだ距離は100kmを越え、東京より埼玉県を抜けて群馬県まで来た。当然、歩き繋げるための電車移動の距離も長くなってきた。もう少し先に進むと日帰りでは大変そうだと感じている。
駅を出て、前回の旅で終了した場所へと歩き進み旧中山道へと合流すると、中山道で11番目の宿場である新町宿(群馬県高崎市新町)。説明版と共に本陣跡に木柱が立てられている。新町宿は中山道で最後に出来た宿場であり、手前にある利根川の支流である神流川を渡る為に宿場が必要となり造られたとある。そして、新町宿から、この先にある碓氷峠の麓にある坂本宿(群馬県安中市松井田町坂本)までの7宿を上州7宿と言われている。
旧中山道は県道から脇に入り歩き進むと、街道沿いに立派な塀がある旧家がある。塀の長さはどれくらいあるだろうか。歩き進んでも結構長い距離である。川端家住宅とあり、江戸時代から続く豪農で、明治時代に絹産業で繁栄したとある。
明治時代には世界最大の生糸輸出国であった日本。群馬県は江戸時代から養蚕が盛んであり、富岡製糸場が作られ、絹製品を横浜港より輸出するための鉄道も整備されている。実際に旧街道である中山道を歩く旅をしていると、絹産業に関係する史跡も多く残されている
旧中山道は関越道の下を抜ける歩道を抜けると、利根川の支流である烏川の土手に出る。ここからしばらくの間は烏川に沿って歩き進む。ずっと先に見えるギザギザしている山は上毛三山の1つの妙義山であろうか。
お昼にはまだ早いけれど烏川の土手にある階段で休憩し、持参してきたおにぎりを食べた。今日1日で20kmを歩く計画をしている。まだまだ先は長い。エネルギー補給は十分にしておかないと。
江戸時代の旅人は烏川を柳瀬の舟渡しで渡っており、その渡し賃は、武士は無賃であったが、旅人は1人十文とある。十文は今ではどれくらいになるのかを調べると、江戸の町では団子1本(4個)4文で約63円、そば・うどん1杯16文で約250円とあるので、十文だと150円程である。思ったより安いと感じる。
旧中山道は船で対岸に渡っているが、現代では船の渡しは無いので橋で烏川を渡る。
国道17号倉賀野バイパスを渡り、JR高崎線、JR八高線を高架で越えて先に進むと、中山道と日光例幣使街道との追分(街道から道が分かれる場所)に到着した。
日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)とは、日光東照宮の例祭に向かうために朝廷からの使者(例幣使)が通った道であり、この場所から日光の今市まで続き、日光街道に合流している。
追分の場所に建てられている常夜灯は江戸時代後期の1814年建立であり、2023年より209年前になる。隣にある道標には「従是 右江戸道 左日光道」と刻まれており、当時の重要な追分であったことが良く解る。
追分のすぐそばには真新しい焔魔堂が立てられており、お参りして中を覗かせてもらうと、期待通り迫力ある閻魔様であった。
中山道で江戸より12番目の宿場にある倉賀野宿は、利根川水系で最上流になる河岸があったので、上信越と江戸を結ぶ水陸の交通の要所として栄えた宿場だった。
旧中山道沿い倉賀野宿内を歩いていると、一風変わった建物に目が留まった。街道沿いで見かける古い建物であり、奇麗に整備されているのが良く解るけれど、建物の2階にある白い土塀が何だか違う。
「うだつ、だよね」
うだつと聞くと、「うだつが上がらない」の言葉で聞いたことがある。意味は出世が出来ない、運が悪くて環境に恵まれていない等の表現に用いられているが、本来のうだつは屋根の両端に造られた防火壁のことである。江戸時代中期になると、装飾的に重きを置かれるようになり、財力を誇示するための手段として立派なうだつを上げられるようになったと言う。
今までにも見たことがあったかもしれないけれど、うだつと意識してみたのは初めてだ。これがうだつか。自分1人で感心しながら先へと進む。
倉賀野宿脇本陣である大きくて立派な建物の前を通ると、倉賀野宿が賑わった宿場であったことが良く解る、その先にある高札場でも写真を撮り、まっすぐに先へと延びていく旧中山道を高崎へと向かった。
次は高崎か。東京から新幹線に乗ると何駅目だっけ?東京駅、上野駅、大宮駅、高崎駅か。新幹線だと1時間かからないよね。ここまで歩いてきた私は7日目だけれど。先へ進もうか。