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大人の日帰りウォーキング 学校で習った歴史人にまつわる話も身近に感じる 1日20kmを歩く旅

わか子ライター
旧中山道沿いにある浅間山古墳(埼玉県児玉郡上里町神保原町)

これは何だろう?
旧街道を歩いていると、突然現れたのは小高い塚。どう見ても不自然に盛られた土の上に大きな木が独創的に枝を伸ばしている。一瞬、一里塚かとも思ったけれど、一般的な一里塚よりは大きいし、神社の鳥居もある。
塚の隣に立てられている説明版見てみると、「浅間山(せんげんやま)古墳」とあり、古墳時代終末期の7世紀後半に造られたと考えられていると書かれていた。
武蔵野には古くから人が住んでいた歴史があるので、この辺りにも古墳を作れるような豪族が住んでいたのかもしれない。江戸時代の主要街道である中山道のすぐ脇であり、道路の拡張などの影響なく残されているのに感心する。とりあえずスマフォを取り出して写真に収めた。

子育てを終了する年齢の立派なおばさんになった私は、数年前より登山や街道歩き、街歩き等の歩く旅を初めて楽しんでいる。今日は、江戸時代に造られた五街道の1つである中山道を歩いており、江戸東京日本橋より日帰りで歩き繋げて6回目になる。埼玉県にあるJR深谷駅を出発し、途中の神社でお弁当を食べてここまで歩いた距離は15km程になっていた。

そろそろ、足が痛くなってくる距離だけれど、もう少し頑張ろう。
旧街道歩きをしていると、街道沿いに史跡などの見どころが多い区間もあるけれど、この辺りは見所が少ないような気がする。ただ、まっすぐ先へと続く道をひたすら歩く。
ひたすら歩いていて楽しい?と聞かれるならば、それだけを思えばもちろん楽しくない。しかし、街道歩きとは、本来は人間が移動するための手段なので、人間が飽きないで歩けるような仕組みは無いのが普通である。
現代の情報過多の社会で日常生活を送っていると何かと疲れるので、その日常から離れる時間を過ごすのも悪くない。何も考えずに、ただ黙々を歩いていると、何だか頭の中がすっきりするような気がする。

この辺りに一里塚があるけれど…。
旧中山道と国道17号が交わる交差点を渡った辺りに、江戸日本橋から23番目になる勝場(勅使河原)の一里塚があるので、辺りを探してみる。
この先には利根川の支流である神流川がある。その神流川を渡る国道17号の橋が新しく付け替えられたようで、大きくカーブしている真新しい道があった。手持ちの地図とスマフォの地図で位置確認をすると、新しい道路が出来て取り残されてしまった旧中山道があり、その道路脇にあるお堂の隣に一里塚の石碑を見つけることが出来た。

勝場(勅使河原)の一里塚 日本橋より23番目
勝場(勅使河原)の一里塚 日本橋より23番目

街道歩きの旅をしていると、一里塚を見つけるのはミッションのようにも感じるので、とりあえず見つける事が出来てホッと一安心する。

真新しい国道17号を歩いて神流川に架かる橋へと進む。そして、川の向こうは群馬県だと気が付いた。
群馬県まで歩いてきたのか。何だかすごいかも。
日帰りで歩き繋げてはいるけれど、東京から群馬県まで歩く人は珍しいだろうと思うけれど、そんなことをしようと思う人はいないような気がする。でも、私だってやれば出来るじゃないか。何だか自分に自信を持てるような気がしてくる。
何かを実際に自分の力でやってみる事は、自分の中に新しい価値観が加わったような気がした。

神流川に架かる真新しい橋を渡りながら、右手には美しい裾野を広げる赤城山が良く見えていた。
赤城山は標高が1827mであるにも関わらず、火山特有のなだらかで大きく広がる裾野はとても美しい。その大きな裾野は富士山に次いで二番目の長さだと言われている。

自然豊かな景色を楽しみながら橋を渡ると、突然、とてもスタイリッシュなガラス張りの大きな建物が目に飛び込んできた。GATEAU FESTA HARADAと書かれた看板があり、ラスクで有名なガトーフェスタハラダの建物であるのが解る。都内のデパートにある販売店では行列を見かけることもある有名店で、手土産に頂くと嬉しい馴染みがるお菓子である。

ガトーフェスタ ハラダ 本社工場(群馬県高崎市新町)
ガトーフェスタ ハラダ 本社工場(群馬県高崎市新町)

こんなところに工場があったのかと思ったけれど、ガトーフェスタハラダはもともとこの地で創業されたとあるので、地域に根差しているようだ。
ここでは工場見学が出来、直営店でお土産も購入できるので、お土産にラスクを買って帰りたい。しかし、国道沿いにある建物は大きく、併設されている広い駐車場もあるので、車で訪れていれば立ち寄りやすいけれど、歩く旅をしてきて足が疲れ切っている私では、これ以上歩く距離を増やしたくないのが本音である。この先の旧中山道沿いにも直営店があるので、そちらに寄ることにして先に進む。

国道17号より旧街道が脇へと入っていく場所に常夜灯がある。この常夜灯は昭和53年に再建されたものであり、神流川と常夜灯について書かれている説明版があった。

神流川 群馬県側の常夜灯(再建)
神流川 群馬県側の常夜灯(再建)

神流川は普段穏やかな流れであるが、増水すると急流になり街道を流してしまうので、目印として常夜灯を建てたという。その常夜灯も江戸中期の大洪水で流されてしまい、江戸末期の文化5年(1808年)に発願し、旅人からも寄付を募り石造りの常夜灯が文化12年(1815年)再建されたと。説明版にある浮世絵には当時の景色が描かれていた。
そして、その先に歩き進むと、新町宿の旅籠跡に小林一茶について書かれた説明版に目が留まった。

小林一茶が書いた「七番日記」の中で、文化7年(1810年)5月11日の内容が書かれている。文化7年は、ちょうど石造りの常夜灯を作ろうとして寄付を募っている頃である。
日記の内容は、この先の烏川(利根川の支流)が雨で渡れなくなり、やむを得ずこの場所にあった旅籠に泊まった。ぐっすり寝ていると朝の4時ごろに専福寺の提灯を持った数人に起こされ、石造りの常夜灯を建てるための寄付金をお願いされる。懐が乏しいので寄付は免じてくれと断るが、少ない所持銭より12文を寄付したという。
「手枕や 小言うても 来る蛍」
朝の4時頃の寝ている時間に寄付をお願いに来ると言う話は本当だろうかとも思うけれど、地図を見ると専福寺と言うお寺はこの場所のすぐ近くにあるので、実際の話なのかもしれない。

小林一茶は、北信濃にある北国街道沿いにある宿場町の出身であり、度々江戸から信濃へと往来している。そして、宝歴13年(1763年)の生まれなので、当時は47歳。
当時の12文を調べてみると、江戸の町では団子1本(4個)4文で63円、そば・うどん1杯16文で250円とあるので、200円程の寄付であったのかもしれない。

当時の小林一茶は、そんなにお金が無かったのか。
松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人の1人である小林一茶は15歳で奉公の為に江戸へ出ている。25歳からの俳諧師としての記録が残っており、40歳ごろより俳諧行脚で生計を維持するようになっていたが、当時の生活は不安定であったとある。やはり、裕福ではなかったのかもしれない。200円は貴重である。たかが200円、されど200円だと、ケチな私の個人的な意見も付け加えたい。

説明版にある浮世絵を見ると、背景に書かれている山は上毛三山なので、埼玉県側より観られる景色であり絵にも本庄宿神流川渡場と書かれている。神流川の中洲まで架けられている橋と、その先は船で渡る様子がみられる。そして、川の両岸にはそれぞれ常夜灯が描かれている。

神流川の両岸にある常夜灯。埼玉県の本庄宿側の常夜灯は豪商の寄付によって1815年に造られたとあり、当時の物は近くの大光寺に残っている。そして、群馬県側の常夜灯は、すこし離れた高崎市大八木にある諏訪神社の参道入り口であった場所にある常夜灯だと言われており、当時の物が残っているらしい。

小林一茶が12文を寄付した常夜灯か。当時の様子を知ることが出来るのは、街道歩きの楽しみの1つでもある。結構、楽しい。

そして、今日の歩く旅はそろそろ終わり。歩き続けた足は疲れ切っているが、それでも何だか楽しかったし、今日の予定を無事に完歩出来たので達成感もある。

冷たいジュースでも買おうか。炭酸のシュワシュワしたのが飲みたいと思いながらJR新町駅へと向かった。

参考
江戸の家計簿 磯田道史 宝島社
誰でも歩ける中山道六十九次上巻 日殿言成 文芸社

今回歩いたコース 約20km

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ライター

東京都在住のおばさんです。子育てが落ち着いてきた頃より趣味で登山や街道歩き等を始めました。歩く旅は大変だというイメージがありますが、歩く事で解る楽しみもあります。実際に歩く旅をして、歩く旅の楽しさをお伝えしたいと思っています。

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