大人の日帰りウォーキング 川沿いで休憩し、レンガ造り建物や史跡を楽しみながら歩くひとり旅
ちょっと休憩しようか。
利根川の支流である小山川を渡る。川沿いはサイクリングやハイキングコースに整備されており、このまま川沿いを歩きたくなるけれど、今日は街道ウォーキングをしているので残念する。
穏やかな川の流れが心地よい。辺りを見回すと、河原に下りる階段がある。春から夏にかけての日差しを受けているコンクリートの階段に座ると、お尻がポカポカしてくる。
空の青さと、草の若緑、タンポポや菜の花の黄色がとても美しい。鮮やかな自然の色が組み合わさる景色を観ていると、何だか心が安らぐ。リュックから水筒を取り出してお茶を飲む。目の前の景色をみてきれいだなぁと思い、ふーっと息を吐いた。
時折ふいてくる風は気持ちよく、遠くで鳴いている鳥の鳴き声も心地よい。日常生活では味わえないゆっくりと流れる時間と自然を感じて、何だか気持ちがすっきりする。贅沢な時間だと思った。
そろそろ行こうか。
スマフォを取り出してアプリを開いて確認すると、今日ここまで歩いた距離は6km程だった。今日は1日で20kmを歩くひとり旅だ。先へと進もう。
子育てを卒業するころより歩く旅を楽しむようになった。登山や街道歩き、街歩きと、色々な旅を楽しんでいる中で、今日歩いているのは江戸時代に造られた五街道の1つである中山道である。
江戸東京日本橋を起点として京都の三条大橋まで続く中山道は、東海道と共に当時の重要なインフラの1つであり、その距離は東海道で約495km、中山道で533kmもある。
電車も車のない江戸時代には、人々は歩いて移動するのが普通であり、江戸から京都までを約2週間かけて旅をしたと言われているが、現代この距離を移動しようとすれば、あっという間である。車で平均時速80kmの速度で走ったと計算すると6時間半。新幹線に乗れば東京から京都まではわずか2時間10分で到着できる。こんな時代に生まれ育っている現代人にとって、東京から京都まで歩いて行こうと思う人は数少ない。
当時と同じように歩いて東京から京都まで行けないだろうか。江戸時代と言っても、たかだか157年前だ。
ふと、そう思い日本橋から旧街道を日帰りで歩き繋げて6回目。今日は、埼玉県にある深谷宿から歩きはじめて本庄宿、新町宿へと向かい歩いている。中仙道の中でも、この辺りは比較的宿場間の距離が長いので、ただ、ひたすら歩く。
お昼には早い時間だったが、途中にある八幡大神社の公園にあるベンチで持参しているお弁当を食べて、出発した深谷宿から11kmの距離になる本庄宿に着いた。
江戸から10番目の宿場である本庄宿は武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)最後の宿場であり、中山道で最も人口が多い宿場であった。また、利根川水運の集積地でもあったため、近くの農産物だけでなく、信濃国(長野県)方面から届く物資も江戸に運ばれ、江戸からも綿織物や水産物が運ばれたという。
旧深谷宿内を歩いていると、レンガ造りの立派な建物がある。
本庄レンガ倉庫と書かれているその建物はとても歴史ある建物に見え、どっしりとしたたたずまいに風格を感じる。建物前にある説明版を読むと、「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」と、書かれている。
レンガ造りで銀行の倉庫?銀行が取り扱う物であり、倉庫で保管するものと言えば…。
倉庫に現金を保管していた?まさかね。現金を保管するのは金庫だろう。
いくら頑丈で耐久性があり、火災にも強いレンガ造りでも、こんなに多くの窓が作られている建物に現金を保管するなんて、泥棒さんに「どこからでも入れますよ」と、言っているようなものである。
そう思いながら説明版を読み進めると、レンガ倉庫に保管されたのは融資の担保になった大量の繭(まゆ)と書かれていた。
本庄は江戸時代末期より繭の集積地として栄え、明治16年に高崎線の本庄駅が開業すると繭と繭で造られた絹の街として発展を遂げたとある。
そうだったのか。レンガ造りの建物に窓が多く作られている理由は、繭を保管するために通気性を考慮された為であり、防犯の為か鉄の扉もつけられているのに納得する。泥棒さん、いらっしゃいではなかったようだ。当たり前か。
現在のレンガ倉庫は、まちの駅の交流スペースとして一般開放されているので、中に入らせてもらおうか。
ドアを開けて中に入ると、とてもひんやりして気持ち良い。レンガ造りの建物は蓄熱性が高いので、夏には涼しく冬には暖かい理想的な室内環境となるという。室内はかなり広い。この建物の中にどれほどの繭が保管されていたのだろうかと思うけれど、想像もつかない。
館内には本庄市の資料館のように、江戸時代から明治以降の本庄市に関する資料が写真と共に展示されていた。
中山道に関する資料もあり、江戸末期に14代将軍である徳川家茂に降嫁した皇女和宮の行列記録も興味深く拝見したが、短期記憶が弱くなってくるおばさんの年齢では忘れるのも早くなっているのがとても寂しい。
館内の自動販売機で冷たい飲み物を買い、奥にある無料休憩所で一休みさせて頂いた。少し休むだけでも、足はかなり軽くなる。
旧中山道は、宿場の外れにあったという立派な金鑚(かなさな)神社を回るようにして直角に曲がり、その先で方向を戻して先に進んでいる。どうして、わざわざ街道が曲がっているのか気になるけれど、その理由が解る資料を見つけられなかった。
しかし、この交差点は下仁田街道(上州姫街道)との追分(道が二つに分かれる場所)であり、左に曲がると群馬県の富岡から下仁田をぬけ、信州にある中山道岩村田宿で再び合流する。
富岡、富岡製糸場か。
明治5年に設立された富岡製糸場は、日本の重要な輸出品である絹織物を生産するために造られた。群馬県はもちろん、近隣の長野県や埼玉県からも良質な繭が届けられ、出来上がった絹織物は、横浜港から輸出されていたという。
そうすると、この辺りは富岡製糸場で加工される繭を大量に運び、出来上がった上質な絹織物は再びここを通って横浜へ運ばれていたことになる。
江戸時代から重要なインフラであった中山道。明治時代に入ると並走するように鉄道も整備され、日本の近代化にも多くの物資を輸送し、経済発展へ大きな役割を果たしていたのか。
立派なレンガ造りの倉庫が必要になるほど、この町の地域経済も発展したのを実感した。