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大人の日帰りウォーキング 東京駅のような美しいレンガ造りの駅から出発し、1日20kmを歩くひとり旅

わか子ライター
JR深谷駅

日曜の朝8時過ぎ。空には青空が広がっている。
最高気温が20度を超える予報が出ている今日の空は、春の空らしく白みがかった黄色をしている。暖かくなってくる日中はシャツ一枚でも良さそうだ。

都心のターミナル駅を出発した湘南新宿ラインは、山手線の列車と併走した後トンネルへ入った。こんな場所にトンネルがあったのかと改めて思うが、線路が立体交差している場所だと後から気が付いた。
トンネルを抜けるとJR東日本の新幹線の車両基地が見え、その先には埼京線の車両基地。数多くの電車が列をなしている姿に迫力と美しさを感じながら、窓から見える景色を眺めていた。都心を抜けた電車はぐんぐんとスピードを上げて走り、荒川を越えて埼玉新都心の先へと進んで行った。

乗っていた電車は途中の籠原駅止まりなので、後からやってきた電車に乗り換えをし、1駅先のJR深谷駅で降りた。駅舎はレンガ造りの建築で、思わず立ち止まって眺めてしまう。

これは凄い。青空を背景にしたレンガ造りの立派な駅はとても美しい。

深谷市がレンガの街として知られているのは、明治時代に都市整備の為に必要となったレンガの製造工場が設立されたことだった。日本初の機械式レンガ工場であり、造られたレンガは東京駅や日本銀行、東京大学、JR中央本線万世橋高架橋、信越本線碓氷峠の鉄道施設等の建築資材に使われており、今でも見る事が出来る建物も多く、どれも当時を代表する建築物でもある。

そして、深谷市は2024年(令和6年)7月3日より新しい一万円札となる渋沢栄一氏の故郷でもあり、駅前のロータリーにはマスコットキャラクターのふっかちゃんと共に銅像がある。

深谷駅北口 ふっかちゃんと渋沢栄一銅像
深谷駅北口 ふっかちゃんと渋沢栄一銅像

JR深谷駅を出て旧中山道を北に向かって歩きはじめた。

子育てを卒業した頃より歩く旅を始めて楽しんでいる。どうして歩く旅を始めたのかと言うと、これと言った理由は無い。ふと、歩いてみようと思って始めると、想像以上にはまってしまった。歩く旅の途中で街の歴史を知ったり、史跡を見つけたりするのも楽しいし、沢山歩いてお腹が空いて食べるご飯が美味しいのも、歩く旅をしている理由なのかもしれない。もちろん、こんなニッチな旅を楽しむ人は私の周りにはいないので、1人で楽しんでいる。

今、歩いているのは江戸時代に造られた五街道の1つの中山道。江戸東京日本橋を出発し、日帰りで歩き繋いで6回目になる。これまでに歩いた距離は約80kmにもなっているのに気が付いて、自分でも驚いている。

旧深谷宿の街並み
旧深谷宿の街並み

深谷宿は中山道で9番目の宿場であり、江戸を出発した旅人にとって2日目の宿にちょうど良い距離だった。
その為、宿場の規模は大きく本陣1、脇本陣4、旅籠は80余りもあり、東海道を合流している草津宿、大津宿を除くと中山道で最大規模の宿場であった。そして、辺り一帯は江戸時代中頃から窯業レンガを焼く製造業や養蚕が盛んになり、毎月5と10が付く日に市が開かれていたという。(深谷宿内には、江戸日本橋から19里目になる一里塚があったと言われているが、詳しい位置は不明)

宿場らしい古い木造建築が残っている旧中山道を歩いて行くと、一軒の菓子屋があった。木造建築の風情ある建物にある看板には「五家宝」と書かれている。

今も昔も、旅の楽しみの1つは、その土地の名物を楽しむ事である。五街道の旅グルメと言うと、東海道鞠子(まりこ)宿のとろろ汁や、小田原宿のういろう、中山道木曽路の五平餅などが有名であるが、実は深谷宿「五家宝」も埼玉三大銘菓の1つに数えられており、江戸時代末期に売り出されたと言われている。もち米が原料で水あめを絡めた棒状のものにきなこがまぶされている和菓子であり、今でも深谷市内のお店で作られているという。

旧中山道沿いの製菓店
旧中山道沿いの製菓店

以前、お土産で頂いて食べたことがあり、素朴な甘さときなこの味が美味しかったのを覚えている。お土産に買って帰ろうとお店を覗くと、何組かお客さんがおり順番待ちになりそうだったので、あきらめて先に歩き進むことにした。

旧街道沿いに残っている趣のある建物や蔵がある景色を楽しみながら先に進むと、宿場の終わりを告げる常夜灯があった。

深谷宿の東端の常夜灯は、明治初期に富士講(富士山を信仰する人々の集まり)の人々により建てられたもので、高さが4mもあり中山道最大であると言う。宿場の西側にある常夜灯も同じく高さが4mもあり、こちらは江戸末期の天保11年(1840年)に造られている。

深谷宿常夜灯(写真左:西側、写真右:東側)
深谷宿常夜灯(写真左:西側、写真右:東側)

深谷宿を出ると、次は本庄宿へと向かっていくが、この間の距離は二里半九丁であり、約11kmもある。現代人にとって江戸時代の長さの単位には馴染みがなく、当初は良く分からないと思っていたけれど、一里=人間が1時間に歩く距離と考えると、二里半九丁は2時間半程の距離になるので、これはこれで解り安いかもしれないと感じ始めた。それでも、1里は約3.927kmもあるので、時速は約4kmとなり、現代人ではこの速度で長時間を歩き続けるには、相当な体力が必要になる。

当時の旅人も、この辺りは黙々と歩き続けたのだろうかと思いながら、緩やかに曲がりながら先に延びている道路に、旧街道の趣を感じながら先へと歩き進む。

街道沿いにある古い石碑や石仏を眺めながら歩いた先で国道17号と合流し、さらに先へと進んで行くと、宝登山神社があった。秩父三社の1つであり、秩父長瀞にある大きな神社であることを思い出す。確か、パワースポットと呼ばれていたような…。

国道17号沿いにある宝登山神社
国道17号沿いにある宝登山神社

お参りしていこうかな。ご利益頂けるかもと、通りすがりにも関わらず勝手なお願いをしてみるが、きっと、神様は「はいはい」と、手短に答えているだろう。先へ進もうか。

国道17号を歩いていると、道路わきの建物が無くなり、突然視界が開けた。遠くまで広大な田園地帯が広がり、その先には群馬県の山々が見えている。目の前で大きな裾野を広げている山は赤城山じゃないか。
群馬県の近くまで来ていると実感させられた。

足を止めて景色を眺めた。
旅の楽しみの1つが非日常を感じる事であれば、この景色は、まさに私にとっての非日常である。広々とした景色を眺めていると、日常の些細な事なんてどうでも良いと思えてきて、何だか気持ちが清々しく感じてくる。
まだまだ、先は長い。頑張って歩こうか。

国道17号より脇道の旧街道へと進む。この辺りはどうしてもひたすら歩く区間の様だ。何かの修行の様だと感じながら歩き進むと道が二股に分かれており、その間に石碑があった。

中仙道古道について書かれている石碑と馬頭尊
中仙道古道について書かれている石碑と馬頭尊

隣にある防火水槽の柱に付けられている説明版に「左中山道」と書かれているので助かる。その上に書かれている百庚申とは何だろうか?とりあえずそのまま進むと、道が良く分からなくなってきた。スマフォを取り出して位置確認をしていると、その先で右に曲がるらしいことが分かった。どうやらこの先で川を渡るために坂を下るらしい。

百庚申(埼玉県深谷市岡)
百庚申(埼玉県深谷市岡)

これが百庚申か。旧中山道沿いの坂道で、予想よりはるかに多い石碑に圧倒されながら説明版を読んでみた。
百庚申が造られたのは幕末の大政奉還の7年前である万延元年(1860年)の庚申の年。大老の井伊直弼が暗殺される桜田門外の変や黒船来航があり、民衆にも不安が広がる中で、神仏に願う心理が庚申信仰に結びついたと書かれていた。

(深谷市岡地区内に江戸より20番目になる一里塚があったが、現在は詳細不明)

ライター

東京都在住のおばさんです。子育てが落ち着いてきた頃より趣味で登山や街道歩き等を始めました。歩く旅は大変だというイメージがありますが、歩く事で解る楽しみもあります。実際に歩く旅をして、歩く旅の楽しさをお伝えしたいと思っています。

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