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能登半島地震で石川県主体のボランティア「県ボラ」は何をするのか 実際に参加してみました

関口威人ジャーナリスト
穴水町のベースキャンプから出発するボランティアバス=4月12日、筆者撮影

 発生から3カ月半が過ぎた能登半島地震。被災地には倒壊家屋が手付かずのまま多く残され、一方でボランティアをはじめ「人」の少なさが指摘されています。

 ボランティアをするにはいくつもルートがありますが、元々やりたければ誰でもどんな方法でも自発的にやるのがボランティア。それが昨今は洗練されてきた一方、統制・管理されてきた面もあります。

 今回の能登半島地震では、最も正式なルートである石川県主体のボランティア体制(呼び方はいろいろあるようですが、ここでは「県ボラ」とします)がどうなっているのか、私も分からないことだらけでした。これは自分で体験してみるしかないだろうと登録して4月11日(木)、12日(金)にかけて参加してきました。その体験と活動後の補足取材から、ボランティアの意義と課題を考えます。

活動は原則「撮影禁止、SNS投稿禁止」

 まず前提として、この活動の撮影や発信については表向きホームページなどに何も記されていません。

 ところが、現地に行くと口頭やその場の資料、張り紙などで「写真や動画の撮影はご遠慮ください。SNSでの発信はやめてください」と繰り返し伝えられました。

 トラブルを避けるために仕方ない面はありますが、やはりこれが情報の少ない原因なのだと分かりました。

 私は本業がライター・ジャーナリストで、これまでもボランティア同行取材を何度もして発信してきた経験から「記録や発信もボランティア活動の大事な要素」と認識しており、被災者や他の活動者には十分配慮するので取材を兼ねた参加を認めてほしいというお願い文を事前に石川県災害対策ボランティア本部宛てに問い合わせフォームで送りました。

 その結果、撮影は「一切禁止とまではしておりません」と返信があり、上記のような内容の範囲で被災者の気持ちに十分配慮すれば記録に残すことは差し支えないと許可を出してもらいました。

 また、「ボランティア活動中は作業に集中してほしい」とも書かれていたので、写真を撮るにしてもiPhoneだけでと割り切って準備を進めたという経緯になります。

今回、私が用意した荷物。いつも持っていく一眼レフカメラや望遠レンズは入れず、1泊2日で宿泊場所と2食付き、気温も暖かくなっていたのでこの程度で収まりました。寝袋はスーツケースに詰め込みました=筆者撮影
今回、私が用意した荷物。いつも持っていく一眼レフカメラや望遠レンズは入れず、1泊2日で宿泊場所と2食付き、気温も暖かくなっていたのでこの程度で収まりました。寝袋はスーツケースに詰め込みました=筆者撮影

残り枠の多い日程を見つけて申し込み

 石川県の災害対策ボランティア本部は県庁内にあり、主に県職員が業務を担っています。

 これは社会福祉協議会が主体となる各市町村の体制や、災害時の広域ボランティア支援本部は「公設民営」とする愛知県のような体制と違い、県主導の面が強いと言えます。1997年のナホトカ号の重油流出事故におけるボランティア受け入れの教訓を踏まえて整えられていった仕組みだそうですが、それだけに非常に慎重で、良くも悪くも管理的であると言えるのでしょう。

 私は3月上旬に県ボラのサイトで事前登録をしたところ、1週間後からボランティア募集情報のメールが届くようになりました。その翌週からの約1週間、「日帰り」と「1泊2日型」のボランティアを募集するという内容です。(※注・4月16日以降の活動から1泊2日型は「前泊型」となりました。その意味は後半に記します)

 日帰りは輪島市、七尾市、志賀町で、1泊2日型は珠洲市、能登町、穴水町で。それぞれ申し込み用のGoogleフォームがあり、メールが来た翌日の正午から先着順で受け付けを開始するという形。私は1月2日以来通い続けている能登町を特に支援したいという思いから、1泊2日型の能登町での活動を申し込もうとしました。

 ただ、最初のうちは早めにフォームを開いたつもりでも40人の定員はすぐ埋まって「受け付けは終了しました」と出るばかり。他の地域も同様で、そのうち小まめにチェックするのを諦めてしまうようになりました。

 そんな中でふと3月21日からの募集フォームを見てみると、まだいくつか残り枠のある日程が。特に4月11−12日分は残り「17人」とかなり多めでした。自分の予定と照らし合わせても行ける日程だったので、急ぎ申し込みをしました。

今回、私が申し込めたのは金沢駅発着、穴水町のベースキャンプ泊で能登町で活動する日程でした(県ボラのサイトから、赤線は筆者加筆。現在の「前泊型」とはスケジュールが異なります)
今回、私が申し込めたのは金沢駅発着、穴水町のベースキャンプ泊で能登町で活動する日程でした(県ボラのサイトから、赤線は筆者加筆。現在の「前泊型」とはスケジュールが異なります)

バス車内でのオリエンテーションはなし

ボランティア活動保険にもWEBで加入し、10日に夜行バスで名古屋を出発。11日午前8時半に集合場所の金沢駅西口に向かいました。

 青いビブスを着た受け付けスタッフに名前を告げ、スーツケースを運転手に預けて車内へ。ここで参加費1000円(食事代相当。現在は食事の提供がなくなり無料)を支払い、当日の登録フォームのQRコードが印刷された紙をもらいました。

 参加者はもうだいたいそろっていたようで、窓際の席はほぼ埋まっていましたが、一番後ろの3人掛けの席は1人だけしか座っていなかったので奥の右端の席に。その反対側に座っていたのは北九州市から来たという60代の男性でした。退職後、農業を学びに能登に通っていて、ボランティアもしようと決意。県ボラに登録しましたがなぜか情報メールが届かず、本部に直接電話したところ「この日程(4月11−12日)の能登町なら空いている」と教えられ、地域にこだわりはなかったのでその場で登録してもらったそうです。

 そんな男性と私とで話は盛り上がったのですが、車内全体は静かでした。外で受け付けをしていたスタッフたちが乗り込むことはなく、運転手が19人の参加者数を確認するとバスはスーッと出発。そのまま淡々と石川県庁や金沢港を通り過ぎ、内灘町から「のと里山海道」に入り、途中「西山PA」で10分間休憩して一気に穴水町のベースキャンプへ。結局、バス車内でのオリエンテーションなどの時間はありませんでした。

金沢駅西口を発着したボランティアバス。行きは写真を撮りそこねたので帰りの解散後に撮りました=4月12日、筆者撮影
金沢駅西口を発着したボランティアバス。行きは写真を撮りそこねたので帰りの解散後に撮りました=4月12日、筆者撮影

ベースキャンプ到着、慌てておにぎりほおばる

 ベースキャンプは穴水町の中心部から車で東へ10分ほどの旧中学校校舎を活用して2月下旬に開設されました。

 私は3月初めに能登町や珠洲市を取材に回ったときの帰り道、このベースキャンプに寄ったことがあります。

 ボランティアたちがちょうど活動などに出ていた午後の時間帯だったので人の姿はなく、入り口のカギはガッチリと閉まっていました。そこに「関係者以外立ち入り禁止」という紙と、御用のある方はこちらへという電話番号が書いてあったのでその場でかけてみたところ、中の事務室につながったので様子を見せてもらえないかと伝えたのですが、「見学や取材はお断りしています」という対応。これも仕方ない面はあるとしても、残念な印象を持ってしまったのは事実です。

 今回、ボランティア参加者としてようやく中に入れましたが、ここでもやはり詳しい説明はなく、とりあえず荷物を持って靴を脱いで2階に上がる階段にできた列に並びます。5分ほどして2階に着くと男性の管理人に名前を確認され、「D-6」のテントだと言われて奥の体育館へ行くよう促されます。「ディーロク、ディーロク…」と忘れないように頭の中で繰り返しながら、体育館の入り口に張り出された図で71張りあるテントの中から自分の場所を見つけます。

 テントのチャックを開いて中に荷物を置き、活動用のタオルや手袋などを取り出します。次の出発は何時だったっけ…そういえば管理人さんの後ろに紙が張ってあったなあと確認しに戻ると、能登町行きのバスは「11時20分」で、10分前にはお集まりくださいと書いてあります。そうするとあと10分ぐらいしかない。この日の昼食は「各自用意」だったので、金沢駅で買ったおにぎりをテントの中で急ぎほおばり、慌ただしく玄関に戻りました。

旧体育館に張られたボランティア用のテント。壁には能登高校書道部の作品が飾られていました=4月11日、筆者撮影
旧体育館に張られたボランティア用のテント。壁には能登高校書道部の作品が飾られていました=4月11日、筆者撮影

私に割り当てられたテントの中。ここに寝袋を敷いて寝ました=4月11日、筆者撮影
私に割り当てられたテントの中。ここに寝袋を敷いて寝ました=4月11日、筆者撮影

能登町の社協でチームごとに軽トラックに分乗

 この全体的な説明のなさは、最初かなり戸惑いました。後日、県本部に確認したところ、3月中旬まではオリエンテーションなどがあったけれど、多くの参加者から「説明要旨を記載した紙での配付と出発時間などはホワイトボードへの記入で十分事足りる」との意見があって現状のスタイルとなったそうです。

 ただ、ベースキャンプから能登町のどこに行くのかはどの書類にも張り紙にも書かれておらず、バス車内でもやはり説明がなかったので分かりませんでした。町役場のある宇出津地区を通り過ぎ、山側の柳田地区には向かわず、最終的に到着したのは松波地区。私が1月以来通い続けている能登町で最も被害の大きい地区です。ここに町の社会福祉協議会(社協)の本部があることは知っていたので、「やっぱり」と思いました。

 正午過ぎ、バスは社協のボランティアセンターに着き、一行が下車。受け付けで名札シールにマジックで名前を書き、胸や肩に貼ってパイプ椅子に座ってようやく全体の説明を受けました。

 説明したのは名古屋市社協からの応援職員で、ボランティア活動の安全や「原則、写真撮影禁止」といった注意事項を伝えた上で、この日は4件のニーズに対応してほしいとチーム分けが始まりました。活動場所も作業内容もそれぞれなのですが、まず優先したのは「マニュアルの軽トラックを運転できる人」がいるかどうか。

 このセンターから各活動場所へは基本、ボランティア自身が軽トラを運転して移動します。軽トラは各地のNPOなどから提供されたものが多く、マニュアル車の割合が結構あります。そこで5台ほどのマニュアル車を運転できる人をボランティアの中から手を挙げてもらって決めました。この日はちょうど運転できる人たちが5人いたのでうまく当てはまりました。

 それからオートマ車を運転できる人を決め、残りの要員を割り振ります。私は小木地区で倒壊したブロック塀を片付けるチームに入り、マニュアルを運転できる男性のナビ(カーナビは付いていないので)をすることになりました。

能登町松波地区の社会福祉協議会ボランティアセンターから、4チームが軽トラに分乗して現場に向かいました=4月11日、筆者撮影
能登町松波地区の社会福祉協議会ボランティアセンターから、4チームが軽トラに分乗して現場に向かいました=4月11日、筆者撮影

倒壊したブロックを災害ごみの仮置き場へ

 その男性は神奈川県在住の草苅誠蔵さん、御年79歳。今回の災害で能登にボランティアに来るのは3回目とのこと。能登町も2回目なので勝手が分かっていました。

 マニュアル車に乗り込んだ草苅さんは、軽快にシフトレバーを切り替えて車を走らせます。東日本大震災をはじめ、各地の災害でボランティア経験のあるベテラン。でも今回の能登はやはりボランティアの少なさを感じるらしく、「本当はこれからボランティアを増やしていかなきゃいけないのにねえ…」と心配を漏らしました。

 そんな草苅さんと、同じチームでもう2台に分乗したボランティア5人とで小木地区に到着。依頼主の被災者の女性と合流し、片付けてほしいというブロックを5人で分担しながら軽トラに積み込みました。

 作業自体はスムーズに進み、30分ぐらいである程度の量が積めたため、いったん災害ごみの仮置き場に持っていこうという話になりました。

 仮置き場の地図はQRコード付きの紙でセンターからもらっていて、そんなに遠くないと思いこんでいました。ところが、実際に車を走らせると意外に時間がかかり、積み下ろしの時間も含めると1時間ほどがかかってしまいました。

1日の作業時間は午前、午後ともそれぞれ3時間半と設定されており、移動の時間を考えると実際の作業は本当に限られます。

 この日はうまく移動の時間が読めず、やれたことはほんのわずかでした。それでも依頼主の女性は「本当に助かるわ。ありがとう」と何度も言ってくれ、みんな恐縮しながら現場を後にしました。

マニュアル車を軽快に運転する草苅誠蔵さん。70歳を越えても各地で災害ボランティアをしているそうです=4月11日、筆者撮影
マニュアル車を軽快に運転する草苅誠蔵さん。70歳を越えても各地で災害ボランティアをしているそうです=4月11日、筆者撮影

小木地区で軽トラに積み込んだブロックを藤波運動公園駐車場の災害ごみ仮置き場に運び込むまでが初日の活動でした=4月11日、筆者撮影
小木地区で軽トラに積み込んだブロックを藤波運動公園駐車場の災害ごみ仮置き場に運び込むまでが初日の活動でした=4月11日、筆者撮影

施設内は思ったより快適だが悩みは「音」

 小木地区での作業は翌日も(人が変わるとしても)継続することとし、センターに戻ってリーダーが簡単な報告書に記入。帰りのバスは行きと違う小型バスで、短時間とはいえ作業をともにした仲間同士で会話も弾んでいました。

 1時間ほどかけてベースキャンプに戻り、また2階の受け付けで名前を確認されると、同時に夕食の弁当が手渡されました。揚げ物だけでなく煮付けや漬物、きんぴらなどがバランス良く入った弁当でした。

 弁当はテントの中で食べてもいいのですが、旧校舎の教室が2部屋ほど「ミーティングルーム」となっており、朝5時から夜10時まで食事や談話が自由にできます。

 テレビがあり、何といっても小型の充電器が10台ほど置いてあります。バスには座席ごとの充電口などがないので、このミーティングルームの充電器は非常に重宝しました。

 水道も当初はまったく通っていなかったそうですが、徐々に復旧。トイレの水はまだ出たり出なかったりでしたが、屋内でも使えなくはない状態。ただ、もう夜もそれほど冷え込まないので、私は外の仮設トイレを使いました。流しも使えたので歯磨きができました。

 問題は「音」でした。

 体育館は70人近くがテントを出入りするので、チャックを開け閉めする音が常にします。そして夜中はさまざまな音色のいびきが天井に響き…。持ち物に「耳栓(他人の音が気になる方)」と書いてありましたが、なるほどと思いました。

 ちなみに女性はもちろん別の専用部屋が用意してあります。私がバスで一緒だった19人の中で女性は3人程度でしたが、全体的にはもう少し比率は高いかもしれません。

 消灯は夜10時で、朝は5時から解錠されます。朝食はおのおのがとり、6時半から共有部分をボランティアが分担して清掃します。

 「有志」がやるということなのですが、みんなやる気はあるので掃除道具なども毎回「取り合い」になるそう。私は屋外の仮設トイレの掃除を手伝いつつ、他のボランティアが作業する様子を撮らせてもらいました。

屋外の仮設トイレを含めて共有部分はボランティアが分担して清掃します=4月12日、筆者撮影
屋外の仮設トイレを含めて共有部分はボランティアが分担して清掃します=4月12日、筆者撮影

「ボランティアは楽しいと思って帰って」

 この日の朝の出発時間は、珠洲市行きが7時20分、能登町行きが8時10分、穴水町行きが8時15分。2日目はさすがに出発まで余裕があります。

 管理人は初日から交代して「ピカリン」こと東哲也さんになっていました。

 ピカリンさんは金沢市出身で中華料理店の店主などをしていましたが、2年ほど前に穴水町に移住。「終活アドバイザー」やラジオのパーソナリティーなどのユニークな活動をしながら、被災後は自ら支援団体も立ち上げています。

 地元の目線で「もう何もできないという住民の背中を、ボランティアに押してもらいたい。『頑張ろう』じゃなくて『頑張れ』でいいんです」とした上で「ボランティアは楽しいと思って帰ってもらえれば」と話していました。

 そんなピカリンさんに見送られて、2日目の活動に出発しました。

 バスで再び松波地区のボランティアセンターに移動。初日とはやや場所が変わりましたが、やはり4カ所に分かれて活動してほしいとのこと。

 小木地区のブロックの片付けは、昨日の5人の中から2人が行くことに。私は別のチームに変わったものの、やはり草苅さんと一緒になって軽トラに乗り込みました。

 行き先は、津波被害の激しかった白丸地区のやや南の長尾(なご)と呼ばれる地区。津波で流された広範囲のごみを片付けてほしいという依頼です。

 軽トラで回ると、大量のビン、缶、ペットボトルからロープ、ビニールなどさまざまなごみが流れ着いていました。そして依頼主の男性によれば「どこのものか分からない小舟が流れ着いてしまっている」ので、それを撤去までいかなくても、じゃまにならない位置に動かしたいと。

 これはボランティアだけでできるか微妙な作業だったので、地元の社協職員が現地の状況を確認しながら、できる範囲でボランティアが手助けする形になりました。

 大量のごみは前日の反省を生かし、できるだけ近くの仮置き場に持っていけるものは早めに持っていくことにしました。

 そこで草苅さんと私がフル回転。時間いっぱいまで、現場と仮置き場を4往復して運べるものはすべて運び入れました。それでも、片付けてほしいものはまだ残っていたそうです。

津波でどこからか流れ着いたという小舟を人力で動かす作業もしました=4月12日、筆者撮影
津波でどこからか流れ着いたという小舟を人力で動かす作業もしました=4月12日、筆者撮影

多様なボランティアの入り口、敷居下げて

 センターに戻ると、道具類の片付けを終えてから社協側の呼び掛けで集合写真を撮ろうという話になり、パチリ。私も記事での公開を前提にiPhoneを渡して撮ってもらいました。

 こうして2日間にわたる活動が終了し、大型バスで金沢駅まで戻りました。私はそこから新幹線(開通したばかりの金沢ー敦賀間)と在来線で名古屋に向かいましたが、草苅さんは夜行バスで横浜まで帰るといい、九州の男性はなんとこれから立山に登る計画だとも。そんな元気な人たちばかりだったので、この程度の活動では物足りなかったはずです。

 また、県本部によれば活動は2日に分けるよりも、1日を通しての方が効率的でよいとの意見が多くあり、初日は午後に集合してベースキャンプで泊まるだけの「前泊型」を取り入れることになったそうです。いろいろ苦言を書いてしまいましたが、改善は小まめに行われています。

 「県ボラ」には約3万7400人が登録し、これまで県が手配しただけで約2万人、市町村が独自に募集した分を含めると既に6万6000人以上が活動。(4月16日現在の県集計)

 石川県の馳浩知事はGWに向け、ニーズを掘り起こしてさらに多くのボランティアを受け入れると表明しています。

 一方で、ボランティアといっても今回のような力仕事だけが活動ではありません。

 特に、避難所から仮設住宅に移る人たちを「見守る」ボランティアがいることが、その後の孤独死を防ぐために重要です。そもそものニーズを聞き取り、掘り起こす活動もボランティアが担えること。民間の専門的なボランティアやNPOは、能登各地でそうした活動をさまざまに展開しています。私もピカリンさんの招待で、300人以上のボランティアたちが活発に情報交換をするLINEのグループに入れてもらい、あらためてその多様さや自由さに驚きました。

 多様なボランティアが一人でも多く、長く活動するのに、今回の「県ボラ」は入り口となり得ます。その入り口の敷居がもっと下げられて、復興の足がかりとなっていけばと願う体験となりました。

今回参加した能登町「1号車」のボランティア19人。私は前列左端に=4月12日
今回参加した能登町「1号車」のボランティア19人。私は前列左端に=4月12日

ジャーナリスト

1973年横浜市生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(建築学)修了。中日新聞記者を経て2008年からフリー。名古屋を拠点に地方の目線で社会問題をはじめ環境や防災、科学技術などの諸問題を追い掛ける。東日本大震災発生前後の4年間は災害救援NPOの非常勤スタッフを経験。2012年からは環境専門紙の編集長を10年間務めた。2018年に名古屋エリアのライターやカメラマン、編集者らと一般社団法人「なごやメディア研究会(nameken)」を立ち上げて代表理事に就任。

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