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「どうにもならない」惨状広がる能登半島豪雨の被災地、それでも「町のため」前を向く人たちの姿

関口威人ジャーナリスト
土石流による土砂や流木で家が埋まった珠洲市大谷町の集落=9月29日、夏目健司撮影

 地震に続いて激しい豪雨に襲われた石川県の能登半島。1週間が過ぎた9月28日から30日にかけて、孤立状態が解消された輪島市や珠洲市の各地を歩くと、目を疑うような惨状が広がっていた。「どうにもならない」と立ちすくむ住民たち。それでも希望を見つけようという動きを探った。

【輪島市久手川町】あるべきはずの家がない

 輪島市中心部に近い久手川(ふてがわ)町は、中学3年生の喜三翼音(はのん)さんが自宅ごと流されてしまった現場だ。

 私が訪れたときはまだ翼音さんは見つかっておらず、氾濫した塚田川の下流で消防や警察、自衛隊による捜索活動が続いていた。

 ただ、立ち入り規制はほとんど解かれ、下流から歩いて川を遡ることができた。

 途中まで舗装された道を歩く。やがて大量の流木が道の脇に寄せられたエリアに入り、壁がえぐれた家屋が現れる。そして、その先には流木と土石に覆われた景色が広がっていた。

輪島市久手川町の被災現場。水が流れているのは元の道路。奥には市営・県営住宅が並ぶ久手川団地が見える=9月28日、筆者撮影
輪島市久手川町の被災現場。水が流れているのは元の道路。奥には市営・県営住宅が並ぶ久手川団地が見える=9月28日、筆者撮影

 上流から水が足元までザブザブと流れてきていて、川のように見える。しかし、その下にはアスファルトの舗装が透けている。ここはもともと道路だったのだ。

 下の写真で「撮影位置」と記したのが水が流れている道路を撮影した場所。奥の「久手川団地」と呼ばれる市営・県営住宅が目印となる。

上は被災3日後の航空写真。下は2010年の写真。塚田川の流れが変わり、赤い破線内に立ち並んでいた住宅がなくなっていることが分かる=国土地理院ウェブサイトの画像に筆者加筆
上は被災3日後の航空写真。下は2010年の写真。塚田川の流れが変わり、赤い破線内に立ち並んでいた住宅がなくなっていることが分かる=国土地理院ウェブサイトの画像に筆者加筆

 だが、団地の下を流れていた塚田川は土砂に埋もれ、かわりに道路や田畑が新しい川になっていた。

 そして、道路沿いに並んでいたはずの家が、基礎だけを残してなくなっていた。絶句するしかなかった。

下流を振り返って撮影すると、左手に本来立ち並んでいた住宅がなくなっていることに気付く。右手の家も1階の壁がえぐれるような被害を受けていた=9月28日、筆者撮影
下流を振り返って撮影すると、左手に本来立ち並んでいた住宅がなくなっていることに気付く。右手の家も1階の壁がえぐれるような被害を受けていた=9月28日、筆者撮影

「やっと地震に耐えてきたと思ったのに…」

 この場所では、すぐ裏の山の斜面も崩れて木造の家を押し流していた。航空写真では塚田川の中上流部で無数の土砂崩れが発生していることが分かり、濁流と大量の土石、流木が四方八方から住宅に襲いかかっていたと想像できる。

 雨がピークだった21日、久手川団地にいた住民の女性は「バリバリバリという音とともに山が崩れて、家が流されていった。一瞬のことでした」と振り返った。自身も逃げようとしたが、道がふさがれていて逃げられない。仕方なく団地の中にとどまった。水は1階の階段の途中まで来たが、その後は引いていったという。

久手川団地に住む女性が撮影した9月21日の様子。左手が本来の川だが、濁流はガードレールを越えて道路や田畑を川のようにした
久手川団地に住む女性が撮影した9月21日の様子。左手が本来の川だが、濁流はガードレールを越えて道路や田畑を川のようにした

 団地は地震で断水と停電が続いた。それでも壊れていたボイラーが8月末に直り、9月からようやくまともに風呂に入れるようになっていた。それがまた元の断水と停電生活。足の悪い高齢の母がいるため、避難所や仮設にはなかなか入れない。

 「やっと地震に耐えて、やれやれというところだったのに。まだいつもより暖かいのだけが救い。でも冬になったらどうしたらいいか…」

 

 重い気持ちで私も現場を後にせざるを得なかった。女性によれば10月3日時点で、まだ停電や断水は続いているという。

今回の豪雨で被災の激しかった地域。赤い部分は斜面崩壊や土石流の範囲と堆積箇所を表す=国土地理院ウェブサイトの画像に筆者加筆
今回の豪雨で被災の激しかった地域。赤い部分は斜面崩壊や土石流の範囲と堆積箇所を表す=国土地理院ウェブサイトの画像に筆者加筆

【輪島市町野町】スーパーに続々と支援物資

 続いて輪島市の東部にある町野町に向かった。輪島市内からは海沿いの249号線が途中で完全にふさがれていたため、山側に大きく迂回する形で町野町の中心部にたどり着いた。

 ここは地震の被害も大きく、揺れで倒壊した家屋の多くがまだそのまま残されている。そんな町を流れる鈴屋川が激しく氾濫。護岸は大きくえぐれ、流木が道路を覆った。

 訪れた29日は晴天で、車が行き交うたびに乾いた茶色い砂埃が高く巻き上がっていた。

町野町の中心部を流れる鈴屋川は激しく氾濫し、護岸や橋の欄干に大量の流木が絡みついていた=9月29日、夏目健司撮影
町野町の中心部を流れる鈴屋川は激しく氾濫し、護岸や橋の欄干に大量の流木が絡みついていた=9月29日、夏目健司撮影

 町には地震後、他地域より決して多くはないものの、全国から災害ボランティアが継続的に支援に入ってきていた。その炊き出し会場や交流の場にもなっていたのが「スーパーもとや」。町で唯一のスーパーマーケットだ。

 この日も愛媛県から来たボランティアが水や食料などの支援物資を、泥を掻き出した店舗の一画に運び込んで住民らに提供していた。

浸水した店舗の一画に運び込まれた支援物資を町の人に笑顔で提供する「もとやスーパー」の本谷一知社長(右)=9月29日、筆者撮影
浸水した店舗の一画に運び込まれた支援物資を町の人に笑顔で提供する「もとやスーパー」の本谷一知社長(右)=9月29日、筆者撮影

 3代目社長の本谷一知さんは「地震をきっかけに交流していたボランティアの人たちが、今回も心配して駆け付けてくれている。店は2メートル近くまで水に浸かってしまい、また雨が降れば同じようになるだろうから、もうここでは商売ができないかもしれない。でも、また別の場所でやったらどうかという提案ももらっている。町の人のためにも営業は必ず再開したい」と笑顔で話していた。

 一方、今回は行けなかったが、町野町の西側にある南志見地区も被害が甚大にもかかわらず、支援や発信が十分ではないという。他にも、能登町の北河内地区は孤立が解消されたとはいえアクセスが非常に限られており、途中で向かうのを断念した。広大な奥能登には、まだ知られていない被害があるだろう。

【珠洲市大谷町、仁江町】土石流の威力にぼう然

 私は地震以来、能登町の内浦地域を経由して珠洲市の外浦地域を回ることが多かった。今回、珠洲市では最も被害が大きかったとされる外浦の大谷町と仁江町に入った。

 いずれも大規模な土石流が、集落の様相を一変させていた。

土石流で2階の床レベルまで土砂に埋まった大谷町の民家。下は軟らかい泥状になっている=9月29日、夏目健司撮影
土石流で2階の床レベルまで土砂に埋まった大谷町の民家。下は軟らかい泥状になっている=9月29日、夏目健司撮影

 大谷町は海岸から500メートルほど入った大谷川沿いの集落が、西側の山から崩れた土石流に巻き込まれていた。

 大量の土砂は、民家を2階の床レベルまで埋めている。写真では乾いた土砂に見えるが、その下はまだ軟らかい泥になっていて、歩いていると足元が突然ズブズブと沈んでしまうところがある。くまなく歩いて回ることは不可能だった。

 

珠洲市仁江町(左)と大谷町(右)の9月24日時点の航空写真=国土地理院ウェブサイトの画像に筆者加筆
珠洲市仁江町(左)と大谷町(右)の9月24日時点の航空写真=国土地理院ウェブサイトの画像に筆者加筆

 仁江町は集落の南東側の山が崩落し、土石流が海まで到達していた。5軒ほどの家が道路を跨いで押し流され、1軒は屋根が防潮堤を越えて完全に海岸へ流されていた。

 こちらも泥状の地面が多く、奥には進めない。何人かの住民が片付けに入ろうとして「自分の家が奥にあるが、とても行けない」と顔をしかめていた。

土石流で海側に押し流された仁江町の家屋。1軒の屋根は完全に防潮堤を乗り越えていた=9月30日、筆者撮影
土石流で海側に押し流された仁江町の家屋。1軒の屋根は完全に防潮堤を乗り越えていた=9月30日、筆者撮影

 これらの土石流は、地震で崩壊した山の斜面が豪雨によってさらに崩れたとみられている。

 「あの山が落ちるなんて思いもしなかった。どうにもならない」。大谷町の住民はつぶやいた。

 この先どうするべきか。答えはまだ誰も持っていないようだった。

ジャーナリスト

1973年横浜市生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(建築学)修了。中日新聞記者を経て2008年からフリー。名古屋を拠点に地方の目線で社会問題をはじめ環境や防災、科学技術などの諸問題を追い掛ける。東日本大震災発生前後の4年間は災害救援NPOの非常勤スタッフを経験。2012年からは環境専門紙の編集長を10年間務めた。2018年に名古屋エリアのライターやカメラマン、編集者らと一般社団法人「なごやメディア研究会(nameken)」を立ち上げて代表理事に就任。

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