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御嶽山噴火から10年、初めて登り切った「八丁ダルミ」から見た光景

関口威人ジャーナリスト
御嶽山・八丁ダルミから王滝頂上方面を望む=9月20日、筆者撮影

 長野、岐阜県境の御嶽山(標高3,067メートル)が噴火してから27日で10年になります。死者・行方不明者63人という戦後最悪の噴火災害です。

 私は噴火翌年の2015年から、慰霊と取材を兼ねてほぼ毎年のように御嶽山を登ってきました。拠点とする名古屋から比較的近場であることに加えて、知り合いの親戚が、いまだ行方不明のままという事情があるからです。犠牲者や生存者、遺族の気持ちに近づくためにも、まずは御嶽山がどんな山なのか知りたいと登り始めました。

【これまでの記事】

御嶽山噴火から9年、規制緩和された「八丁ダルミ」を歩く 山小屋には当時の傷跡と「風化させない」思いが(2023年)

「逃げ場」少ない山頂 「答え」のない安全対策 御嶽山噴火8年、地元の模索続く(2022年)

噴火から6年、御嶽山頂の今を詳報します(2020年)

噴火から4年の御嶽山に山頂まで登りました(2018年)

噴火から3年の御嶽山に登ってみました(2017年)

 1年目は慎重を期して噴火口から最も離れた「開田口」登山道を、2年目は岐阜県側の濁河(にごりご)温泉を出発点とする「小坂口」登山道を、3年目からはロープウェイも使えて一般的な「黒沢口」登山道を登り、4年目には立ち入り規制が緩和された山頂(剣ヶ峰)までたどり着きました。

 6年目からは最短ルートである「王滝口」登山道を登りましたが、噴火口に近く、開けているため噴石による犠牲者の多かった「八丁ダルミ」はなかなか規制が解けず、立ち入れませんでした。

 昨年ようやく規制緩和されたものの、私が登ろうとした日は午後から風・雨・霧が強まり断念。今年あらためて出直す形で9月20日、王滝口から八丁ダルミ経由で剣ヶ峰までの登山に臨みました。

2024年の入山規制図。頂上付近の登山道の規制緩和は10月16日正午までの予定(木曽御嶽山安全対策情報サイトから)
2024年の入山規制図。頂上付近の登山道の規制緩和は10月16日正午までの予定(木曽御嶽山安全対策情報サイトから)

猛暑続きでも山は強風で肌寒い感覚

 この日、名古屋から車で3時間かけて到着した長野県王滝村は、午前9時で気温19度。最高気温は32度の予想でした。猛暑続きの影響でしょう、この時期に見られてもいい紅葉は、山の麓からはまったく見当たりませんでした。

 しかし風は強くて、半袖1枚では涼し過ぎる感覚。長袖のTシャツを1枚重ね着して、登山リュックを背負いました。

王滝口登山道の入口に立てかけてあった看板。「御嶽山は活火山です!」という注意書きとともに、ヘルメットやヘッドライトなどの装備を確認する呼び掛け文があった=9月20日、筆者撮影
王滝口登山道の入口に立てかけてあった看板。「御嶽山は活火山です!」という注意書きとともに、ヘルメットやヘッドライトなどの装備を確認する呼び掛け文があった=9月20日、筆者撮影

 昨年と違った印象を持ったのは、登山道入り口の看板。これまでも登山の注意事項を呼び掛ける看板はありましたが、今年はビジュアルも工夫して「御嶽山は活火山」であることや「自分も遭難する可能性があるという意識を持つ」といった心構え、そしてヘルメットやヘッドライトなどの装備品をチェックするよう促す細かな内容になっていました。

 2カ所に立てかけてあったその看板の横を通り、いざ登山道へ。道は乾いていて、木の踏み板や岩場も滑りそうにありません。前後に人の姿もほとんどなく、マイペースで1時間ごとに8合目、9合目と登っていけました。

8合目と9合目の中間地点にある富士見石。青い空とのコントラストが美しかった=9月20日、筆者撮影
8合目と9合目の中間地点にある富士見石。青い空とのコントラストが美しかった=9月20日、筆者撮影

風は収まらず、諦めて下山する人も

 ただ、風はなかなか収まりません。時折、体がぐらつくぐらい強く吹かれるため、ロープがあるところはできるだけ握って登るようにしました。体も冷えてくるので、登山用手袋が非常に役立ちました。

 下山して来た年配の男性には、「頂上はもっと風がすごいよ。剣ヶ峰まで行こうと思ったけど諦めた。お兄さんなら行けるかもしれないけど」と言われてすれ違いました。

9合目を越えると岩場の奥に王滝頂上が見えてきた=9月20日、筆者撮影
9合目を越えると岩場の奥に王滝頂上が見えてきた=9月20日、筆者撮影

 やっぱり今年も難しいのかな…と不安を感じながらも9合目を越えて王滝頂上(2,930メートル)へ。確かに風はビュンビュンと吹いていて、顔を上げていられないほど。雲もものすごい速さで吹かれていくので、天気は分単位で曇ったり晴れたりしていました。

 王滝頂上には3年前に整備された避難施設があり、中や周囲で数人の登山客が休憩していました。また、「パトロール隊」のビブスを着けた関係者もいたので状況を聞くと、「こんなに晴れているのに風が強い日も珍しい。でも今は何人か上に登っていますよ」といいます。

 私は施設の中で10分ほど休憩をとってから、先に進むことにしました。

王滝頂上に整備された避難施設。開山時期は誰でも休憩に利用できる=9月20日、筆者撮影
王滝頂上に整備された避難施設。開山時期は誰でも休憩に利用できる=9月20日、筆者撮影

八丁ダルミを一歩一歩踏みしめる

 王滝頂上の御嶽神社で手を合わせ、社殿の裏に回ると八丁ダルミへの入り口です。視界は開け、赤茶けた土と砂が一面に広がります。

 風はさらに激しく吹き荒れ、息をするのも苦しくなってしまうほどに。写真や動画を撮ろうとスマホを掲げると吹き飛ばされそうになりました。

八丁ダルミに入ると視界が開け、赤茶けた土と砂の山肌が広がる=9月20日、筆者撮影
八丁ダルミに入ると視界が開け、赤茶けた土と砂の山肌が広がる=9月20日、筆者撮影

 覚悟を決めて、一歩一歩足を踏みしめて進みます。この八丁ダルミでは、犠牲者のうち17人が発見され、まだ行方の分かっていない5人の中にもこの付近にいたとみられる人たちがいます。

 10年前はこれほどの強風ではなかったようですが、噴火があってもなくても、普段から自然の厳しさを感じる場所だと分かりました。

 噴火後に出来た2つの鋼鉄製シェルターを確認し、何かあれば多少は身を隠せるだろう大きな岩を横目に上へ上へと向かいます。

昨年、正式に設置された鋼鉄製のシェルター。山頂までの間に2基がある=9月20日、筆者撮影
昨年、正式に設置された鋼鉄製のシェルター。山頂までの間に2基がある=9月20日、筆者撮影

ハード面はかなり整った印象

 途中、強風に耐えたり撮影をしたりして立ち止まりながら、20分ほどで八丁ダルミを越えられました。

 登り切ったところにはまた2つの鋼鉄製シェルターが並び、その上には6年前に設置されていたコンクリート製のシェルター3基が、さらに山頂の神社(黒沢口御嶽神社)の階段を上がった境内の中にも、簡易的な鉄製のシェルターがありました。

 今年はここから1.5キロほど下った岐阜県側にも鋼鉄製シェルター1基の設置が完了しており、ハード面はかなり整った印象です。

八丁ダルミを登り切ると、もう2基の鋼鉄製シェルターが=9月20日、筆者撮影
八丁ダルミを登り切ると、もう2基の鋼鉄製シェルターが=9月20日、筆者撮影

黒沢口御嶽神社の階段下に6年前からあるコンクリート製のシェルター=9月20日、筆者撮影
黒沢口御嶽神社の階段下に6年前からあるコンクリート製のシェルター=9月20日、筆者撮影

黒沢口御嶽神社の階段を上がると境内の中にも簡易的なシェルターがあった=9月20日、筆者撮影
黒沢口御嶽神社の階段を上がると境内の中にも簡易的なシェルターがあった=9月20日、筆者撮影

 しかし、ここでもし10年前のような噴火が起き、時速300キロともされるスピードで噴石が次々に飛んできたら……自分を含めた皆が本当に身を隠せるだろうか、無事下山ができるのだろうか。そうした登山者側の想像力と準備、そして管理者側の啓発や訓練、計画の策定などはまだまだ必要だろうと感じました。

 一方、山頂から眺める景色はまさに絶景で、疲れや寒さを忘れさせるものでした。噴火活動は小康状態とされ、これまで火口近くで見えていた水蒸気は流れる雲と混ざって見分けられませんでしたが、硫黄の匂いはしっかり感じられました。山は、良くも悪くも別世界なのだと実感しました。

「10年の節目」感じられない関係者も

 実は今年、冒頭の行方不明者の家族に、正式な取材をさせてほしいとお願いをしていました。これまでメディアの取材にはほとんど応じていないのですが、10年を節目として語ってもらえるかと思いました。しかし、まだ状況や気持ちは何も変わっていないとの理由で、応じてはもらえませんでした。

 この10年は時が止まったままで、節目などはない。そんな関係者もいるということです。

 下山をして、麓から見上げた御嶽山は悠然としていました。焦らず、時を待とう。あらためてそう思い直して山を離れました。

 御嶽山の活動状況は気象庁のサイトを、現地の総合的な情報は木曽御嶽山安全対策情報サイトを参考に。

ジャーナリスト

1973年横浜市生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(建築学)修了。中日新聞記者を経て2008年からフリー。名古屋を拠点に地方の目線で社会問題をはじめ環境や防災、科学技術などの諸問題を追い掛ける。東日本大震災発生前後の4年間は災害救援NPOの非常勤スタッフを経験。2012年からは環境専門紙の編集長を10年間務めた。2018年に名古屋エリアのライターやカメラマン、編集者らと一般社団法人「なごやメディア研究会(nameken)」を立ち上げて代表理事に就任。

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