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通信・交通途絶えた奥能登・能登町、穴水町からのSOS 「まとまった支援を」 #令和6年能登半島地震

関口威人ジャーナリスト
能登町に入るため通ったズタズタの道。乗り捨てられた車もあった=1月2日、筆者撮影

 1月1日に発生した最大震度7の地震は、能登半島を中心に広域的で大規模な被害をもたらしている。私も少なからぬ縁がある石川・能登での大地震。翌2日から3日にかけ、知人と情報交換をしながら可能な限り安全を確認して現地に向かった。特に通信や交通のインフラ状況が厳しい北部、いわゆる奥能登の能登町と穴水町の様子を伝えたい。

ズタズタの道を30キロ進み奥能登の奥へ

 能登町は2005年、平成の大合併で能都町、柳田村、内浦町の3町村が合併して生まれた。さらに古い農山漁村レベルで見ると宇出津、鵜川・瑞穂、柳田、小木、松波の5地区に分かれる。(能登町定住促進協議会「能登町移住ガイド」

 今回、私はその最も東端で、珠洲市に隣接する松波地区に入った。

1月3日15時時点での奥能登2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)へのアクセスルート=石川県災害対策本部員会議資料に一部加筆
1月3日15時時点での奥能登2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)へのアクセスルート=石川県災害対策本部員会議資料に一部加筆

 2日の時点で西の穴水町方面からこの地区に向かうには、能登空港(のと里山空港)を経由する県道303号線などの、いわゆる「珠洲道路」しかなかった。

 しかし、道路には大規模な土砂崩れと無数の亀裂や崩落があり、どの車も恐る恐る亀裂を避けたり、乗り越えたりしていた。電気は寸断されているので街灯も信号機も点いていない。電波状況は最悪で、電話もWiFiもつながらない。そんな道が30キロ余り続いた。

道開通も知らなかった知人「ぜんぜん情報が入らない」

 そうした思いをしながらも能登町に向かったのは、この町に生まれ住む中根正道さんの状況を確認したかったからだ。中根さんは家業の洋品店や農業を営みながら環境活動にも熱心に取り組み、月に1度は名古屋で異業種交流会を開くなどユニークな活動をしていて、私も東日本大震災の頃から十数年の縁があった。

 今回の地震直後、メッセージアプリで無事は確認できていたが、しばらくして音信不通になった。教えてもらっていた住所を頼りに、日が沈む前になんとかたどり着いた私と顔を合わせた中根さんは「道、通ってた? よかったあ。こっちはぜんぜん情報が入らないから」と顔をほころばせた。ほっとした思いと疲労から、私は思わず「中根さーん」と抱きついた。

能登町内の離れに備蓄していた米を避難者に提供するため運び出す中根正道さん=1月3日、筆者撮影
能登町内の離れに備蓄していた米を避難者に提供するため運び出す中根正道さん=1月3日、筆者撮影

着の身着のままの町民が運営する避難所

 海側の地区中心部にある実家は地震で傾き、山側の離れに家族と身を寄せているという。余震が続く中、電気と水、通信の止まった生活。ただ、もともと自給自足的な生活をしてきた中根さんには食料などの備蓄はまだ十分あり、他の避難者に米を分けるなどしていた。

 「ここはまだのんびりした雰囲気だけれど、街はひどいし、避難所は人だらけ」

 こう言う中根さんに、被害を受けた建物が並ぶ中心部と避難所となっている松波中学校を案内してもらった。

 中学校の体育館には600人ほどが避難生活を続けていた。帰省中の人や観光客らで、普段いる地区の住民より人数が膨れ上がっているという。

 そうした中で避難所の運営を担っていたのは金七(きんしち)聖子さんだった。

 金七さんは地区中心部にある造り酒屋「松波酒造」の若女将で、本業以外にも地元の新しい特産品づくりの活動などでも知られる。

 しかし、地震で家も蔵も倒れ、金七さんも着の身着のまま避難。消防団から借りた消防服をはおりながら、物資の管理や配布に奔走していた。

避難所となっている松波中学校の体育館で物資の配布などに当たる金七聖子さん。2日の時点で食料も備蓄ではなく地区の商店などからかき集めていた=1月2日、筆者撮影
避難所となっている松波中学校の体育館で物資の配布などに当たる金七聖子さん。2日の時点で食料も備蓄ではなく地区の商店などからかき集めていた=1月2日、筆者撮影

「足りないものばかり」「プロの支援者来て」

 「私自身も着るものがないけれど、洋服からお年寄りの大人用おむつ、携帯トイレ、灯油、水や食料まで足りないものばかり。町の職員もそもそも正月で連絡が取りにくく、町民が自主的に運営している状態。全体を仕切れるプロの支援者に来てほしい」

 2日夜の時点で金七さんはこう訴えた。個人ベースでなく、人的にも物的にもまとまった支援をというのが切実な思いだ。

 自らもSNSで支援を呼び掛けているが、通信状態が悪く更新や返信が思うようにできない。支援の申し出は町役場に集約してほしいという。ただ、役場本庁は松波地区から10キロほど離れた旧能都町・宇出津地区にある。地区を結ぶ道路も寸断されているとの情報がある中で、役場側が全体状況を把握しつつ、各地区に適切な物資を割り振り、搬送できるか。非常に難しいオペレーションが求められる。

松波中学校の体育館は600人以上の避難者であふれ返っていた=1月2日、筆者撮影
松波中学校の体育館は600人以上の避難者であふれ返っていた=1月2日、筆者撮影

 「この地区は祭りが盛んで、組ごとの役割分担などが祭りで鍛えられている。モノさえくれば後はうまく分けられる。しかし、こんな田舎でも水や食料は不足する。都会で起こったらどうなるの」。中根さんは名古屋の私に警告するように言った。

 今回は丸一日もいられない短時間になってしまい、私は中根さんに再訪を誓って能登町を後にした。帰り道では能登町方面に向かう多くの自衛隊車両や消防車両、通信会社の車とすれ違った。とにかく少しでも早く状況が打開されることを願いたい。

金七さんの造り酒屋「松波酒造」も大きな被害を受けていた=1月3日、筆者撮影
金七さんの造り酒屋「松波酒造」も大きな被害を受けていた=1月3日、筆者撮影

「17年前よりひどい」途方に暮れる商店主

 能登町の手前の穴水町にも、状況を確認したい人がいた。町中心部で酒店を営む七海友也さんだ。

 この町は2007年にも震度6強の地震に襲われ、大打撃を受けた。その後の復興に奔走し、4年後に起こった東日本大震災の被災者支援関連イベントに参加していたのが七海さんだった。

今回の地震で商品が散乱した倉庫で「何から手を付けたらいいか分からない」と途方に暮れる穴水町の七海友也さん=1月2日、筆者撮影
今回の地震で商品が散乱した倉庫で「何から手を付けたらいいか分からない」と途方に暮れる穴水町の七海友也さん=1月2日、筆者撮影

 七海さんは地震当日にフェイスブックで無事を報告していたが、ショックを隠せない様子が伝わった。

 実際に店を訪ねると、店舗兼住宅の裏で作業をする七海さんがいた。しかし「今回はさすがにもう何をどうしたらいいか分からない」と憔悴し切っていた。

 地震発生当時は事務所にいた七海さん。気象庁の発表では穴水は今回も震度6強だというが、七海さんの感覚では「2007年のときの5倍ぐらいの強さと長さ」だったという。そんな激震に身を屈めてテレビが落ちてくるのを押さえるのがやっと。後ろを振り向くと、棚にあったものがドドドドーと落ちて床を埋めていた。

 倉庫もまったく足の踏み場がないほど物が散乱。売り場も棚の商品の大半が床に落ち、びんが割れて中身が飛び散っていた。しかし、断水で床を拭く水もない。

店の売り場は棚から落ちた酒びんなどで床が埋まっていた=1月2日、筆者撮影
店の売り場は棚から落ちた酒びんなどで床が埋まっていた=1月2日、筆者撮影

 「片付けようにもどこから手を付けていいのか。やるとなったら力が出るのかもしれないけれど、果てしなく時間がかかりそう。大変やわ…」

 肩を落とす七海さんを前に、妻の由紀子さんは「こんなに元気のないお父さんを見るのは初めて。ただ、初日は本当に何も話せないぐらいだったのが、ようやく話せるようになったみたい」と明かす。とにかく今は片付けのマンパワーと水が欲しいという。

 穴水町は今回、木造家屋や商店が立ち並ぶ中心部が壊滅的な被害を受けている。その地域にある七海さんの生家も激しく壊れ、商店街の知人が亡くなったそうだ。残された町民の精神的ダメージは計り知れない。

 2007年以来、復興支援でつながる名古屋の災害救援NPO「レスキューストックヤード」が3日から穴水町に入り、再び支援の手を集めていく予定だ。

家屋や商店の被害が激しい穴水町の中心部=1月2日、筆者撮影
家屋や商店の被害が激しい穴水町の中心部=1月2日、筆者撮影

ジャーナリスト

1973年横浜市生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(建築学)修了。中日新聞記者を経て2008年からフリー。名古屋を拠点に地方の目線で社会問題をはじめ環境や防災、科学技術などの諸問題を追い掛ける。東日本大震災発生前後の4年間は災害救援NPOの非常勤スタッフを経験。2012年からは環境専門紙の編集長を10年間務めた。2018年に名古屋エリアのライターやカメラマン、編集者らと一般社団法人「なごやメディア研究会(nameken)」を立ち上げて代表理事に就任。

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