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「被害はみんな津波」「集落から火柱」 意外な被災の姿も浮かび上がる能登町での住民それぞれの選択

関口威人ジャーナリスト
地震・津波後に大規模な火災が発生した石川県能登町白丸地区=1月17日、筆者撮影

 能登半島地震で私は発生翌日の1月2日、知人のいる石川県能登町松波地区に入って中心街や避難所の様子を取材した。あれから2週間以上が過ぎたが、16日から18日にかけて再び能登町へ。津波と火災のあった集落などを訪ねると、意外な被災のあり方が分かるとともに、壮絶な経験をした住民それぞれの選択が浮かび上がった。

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道路沿いに残る大量の瓦礫、海には流された建物

 松波地区から3キロほど南に下った白丸地区は津波の被害が激しかったと報じられている。実際に車で白丸地区に入ると、道路沿いに残る瓦礫の量がとたんに多くなった。漁港のある白丸地区は海がすぐ間近だが、引き波で流されたのか、海に半分浮かんでいるような家屋もあった。

津波で瓦礫が散乱する能登町白丸地区。引き波で流されたとみられる建物が半分海に浸かっていた=1月17日、筆者撮影
津波で瓦礫が散乱する能登町白丸地区。引き波で流されたとみられる建物が半分海に浸かっていた=1月17日、筆者撮影

 車を降りてさらに漁港を奥に歩くと、黒く焼け焦げた家や赤茶けた車が、白い雪の上で寒風にさらされていた。輪島市の朝市通りほどの規模ではないが、こちらも集落ごと焼く大きな火災が起こっていたことが分かる。

津波後の火災で20軒ほどが全焼してしまった白丸地区の集落=1月17日、筆者撮影
津波後の火災で20軒ほどが全焼してしまった白丸地区の集落=1月17日、筆者撮影

「まさかこんなことに…」全焼した家を前に落胆

 「地震だ津波だといって避難していたが、夜になって『家が燃えている』と言われて見に来た。そうしたら火柱がバーンって上がって、あっという間に火が広がっていったんだ」

 こう証言するのは火事のあった地区に住んでいた縁山(えんやま)孝夫さん(74)だ。火元は縁山さんの家ではなかったようだが、延焼ですっかり燃えてしまった。最終的にはこの集落で20軒ほどが全焼したという。

「火柱がバーンと上がった」と証言する縁山孝夫さん。自宅は全焼して黒い柱などを残すだけになってしまった=1月17日、筆者撮影
「火柱がバーンと上がった」と証言する縁山孝夫さん。自宅は全焼して黒い柱などを残すだけになってしまった=1月17日、筆者撮影

 「幸い、植え込みの木の裏に停めておいた軽トラックは燃えなかった」という縁山さん。この日は江戸時代から伝わる「仏壇のローソク立て」が焼け残っていればと思い探しに来たが、とても見つけられそうにない。

 「地震があれば津波が来ることはみんな分かっていたが、防潮堤も低くて役に立たなかった。まさかこんなことになるとは…」

 縁山さんはそう言い残して避難所の公民館に戻っていった。一人暮らしで近くに身寄りがないため、とりあえず2次避難を申し込み、指定された場所に行くつもりだという。

「地震の揺れでは大丈夫だった」と話す住民も

津波で1階が大きくえぐられたように破損した白丸地区の住宅=1月17日、筆者撮影
津波で1階が大きくえぐられたように破損した白丸地区の住宅=1月17日、筆者撮影

 この地区を回って気付くのは、地震の揺れで倒壊した家屋は比較的少ないように見えることだ。

 「うちの被害はみんな津波」と言うのは、地区の郵便局長を務める大形格さん(62)だ。

 約30年前に自宅を建てた際、ここの地盤はしっかりした岩盤だと知らされたという。2007年の地震でも被害はなく、今回も揺れは激しかったが、壁に掛けていたものさえ落ちなかった。

 ところが「津波の避難から帰ってきたら家はめちゃくちゃ。畳はぜんぶ浮き上がり、戸棚もいったん浮いてから水が引いて落ちたらしく、倒れてはいるけれどガラスがまったく割れていない」と横倒しになった戸棚を指し示した。

大形格さんの住宅では、戸棚が横倒しになりながらもガラスが割れていなかった=1月17日、筆者撮影
大形格さんの住宅では、戸棚が横倒しになりながらもガラスが割れていなかった=1月17日、筆者撮影

 県道沿いで商店を営む寺岡勇紀夫さん(81)も「地震では大丈夫だった」と言う。家の瓦もまったく落ちず、ミニバイクに乗って周囲を見回って戻ってくると、海水が道路にピチャピチャと流れ込んでくる。その量がどんどん増えてきたため、「これはマズイ」と思ってバイクで高台に逃げた。

 翌朝確かめに来ると、津波は1階の天井近くまで来ていた跡が。置いてあった物はすべて家の裏に押し流されてしまっていた。「1階で寝起きをしていたから、着替えもなくなった。正月からずっと同じものを着ているよ」と話す。

県道沿いの寺岡勇紀夫さんの自宅は、1階の天井近くまで津波の来た形跡がある=1月17日、筆者撮影
県道沿いの寺岡勇紀夫さんの自宅は、1階の天井近くまで津波の来た形跡がある=1月17日、筆者撮影

 「2階も住める状態ではないから、屋根はあっても全壊扱いでしょう。仮設住宅に入って、2年も経ったら町営住宅か。そうしたらもう先は短い」と言って「笑ってるよりほかないでしょ」と薄く笑みを見せた。

津波を受けた自宅には住めないが「どこにも行くところはない」と町内に残るつもりだと話す寺岡勇紀夫さん=1月17日、筆者撮影
津波を受けた自宅には住めないが「どこにも行くところはない」と町内に残るつもりだと話す寺岡勇紀夫さん=1月17日、筆者撮影

一時600人以上が過ごしていた避難所は80人ほどに

 松波地区に戻り、避難所となっている松波中学校を再び訪ねた。断水はまだ続いていたが、敷地内にはトイレトレーラーが設置され、自衛隊も仮設風呂を用意していた。

 2週間前は帰省中の人も含めて600人以上が体育館で夜を過ごしていたが、17日昼の時点では80人ほどに落ち着いていた。町の職員は交代で1〜3人が常駐し、それ以上に他県の応援職員らが入って運営や見回りに当たっている。

 当初はバラバラに囲っていた段ボールの仕切りも整然とした列になり、できるだけ近所の人たちが「区画」ごとに固まるよう配慮されているという。

避難所となっている松波中学校の体育館。段ボールで整然と区切られ、日中は体操の時間も設けられていた=1月17日、筆者撮影
避難所となっている松波中学校の体育館。段ボールで整然と区切られ、日中は体操の時間も設けられていた=1月17日、筆者撮影

2次避難所や仮設住宅も「買い物のバスあるか」確認

 70代の女性は元日から夫と避難を続けている。飼い犬も一緒にいていいと言われ、介護施設で働く30代の息子も4日から一緒に寝泊まりしてくれるようになった。持病もあるが「ここ(避難所)の人が薬も出してくれるからありがたい」。ただ、段ボールベッドは2週間ほどしてからようやく届き、それまでは夜がつらかったという。

 息子は「海沿いの家は液状化もしていて住める状態ではない。両親とも車の運転ができないので、2次避難所や仮設住宅に入るにしても、そこから買い物に行くのにバスが出るかなどをしっかり確認してから決めたい」と話していた。

 この地区を案内してくれた私の知人の中根正道さんも、地震で傾いた実家の店舗兼住宅が応急危険度判定で「危険」と判断された。余震が続き、傾きはだんだんひどくなっているように見えるという。

松波地区内の店舗兼住宅が応急危険度判定で「危険」とされた中根正道さん。山側の離れを拠点にしながら名古屋にも通う=1月17日、筆者撮影
松波地区内の店舗兼住宅が応急危険度判定で「危険」とされた中根正道さん。山側の離れを拠点にしながら名古屋にも通う=1月17日、筆者撮影

「みんな悩んでいる」将来像を大胆に描き動き出す

 「仕事もない、家もない。人は減っていく。これからどうするか、能登の人はみんな悩んでいると思う。でも、能登の農業や漁業はこの国の宝。半島だからこそ独立した経済圏やインフラをつくって立て直せるはず」。中根さんはこんな希望というか、野望を持って名古屋での異業種交流会の関係者らと動き始めた。

 奥能登2市2町の中で、輪島市や珠洲市と比べれば被害は限られる能登町や穴水町。道のりが険しいことは間違いないが、残った住民一人ひとりの選択を尊重しつつ、早く大胆な復旧・復興で他地域を引っ張る役割が期待されるだろう。その動きを長く見届けていきたい。

ジャーナリスト

1973年横浜市生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(建築学)修了。中日新聞記者を経て2008年からフリー。名古屋を拠点に地方の目線で社会問題をはじめ環境や防災、科学技術などの諸問題を追い掛ける。東日本大震災発生前後の4年間は災害救援NPOの非常勤スタッフを経験。2012年からは環境専門紙の編集長を10年間務めた。2018年に名古屋エリアのライターやカメラマン、編集者らと一般社団法人「なごやメディア研究会(nameken)」を立ち上げて代表理事に就任。

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