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なぜ東欧では非民主的な傾向の政権が多いのか。主権という名の病:ヴィシェグラードグループとEUと露(3

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者
ヴィシェグラード。14世紀に反ハプスブルク同盟が組まれた。ヴィシェグラード観光局

東欧には、自由で民主的とは言えない政権が多い。

ハンガリー、ポーランド、スロバキア・・・これらの国々は、欧州連合(EU)の加盟国である。が、加盟国に至上命題として要求されるものの一つ「法の支配・法治国家」が守られていないとして、EUの基金からの支払いが停止されている。

なぜこうなるのだろうか。なぜこれらの国々では、民主主義と自由主義がうまく機能しないのだろうか。「旧共産圏だから」と言えば、それまでなのだが。

東欧の地域で起こっていることをどう説明し解釈すればいいのか、ずっと筆者は考えてきた。

そんな時、一つの優れた論考に出合った。ポーランド人の政治学者のヤロスワフ・クイス氏と社会学者カロリナ・ウィグラ氏が仏紙『ル・モンド』に寄稿したものである。テーマは「主権」であり、「共産主義崩壊後の国家の建設」である。

二人の学者が主張しているのは、約半世紀に及んだ共産主義の後の時代には、「民主主義」といえば、二つのインスピレーションのモデルであり模倣の道があったという。

一つは、当然ながら自由で民主主義の西側諸国、もう一つは両大戦間の「完全に独立した国家の時代」である。そして、どちらの場合も、再び国家が消滅する恐れが依然として残っている。ポーランドの内紛の激しさは、この実存的な不安から生じているというのだ。

ポーランドは東欧で特異なケースとは言えないだろう。むしろポーランドは、現在の非自由主義的傾向は、どのような歴史的起源があると理解できるかという一例を示している。集団的トラウマは真剣に受け止めるべきだーーという内容である。

東欧は日本人には比較的なじみが薄いので、大幅に説明を足しながら、筆者の理解した内容を解説したい。

大変短い、独立と完全主権の時代

東欧の多くの国々にとって、完全に独立して国家主権を得たのは、第一次大戦後のことである。講話条約として結ばれた1919年のベルサイユ条約によってであった。その前は彼らは、主にハプスブルク家のオーストリア、ドイツ帝国、ロシア帝国の支配下にあったのだ。

ベルサイユ条約後、1923年の欧州と西アジア。Map_Europe_1923-fr.svg、wiki.enより。
ベルサイユ条約後、1923年の欧州と西アジア。Map_Europe_1923-fr.svg、wiki.enより。

現在において、もし第一の道、西洋近代化モデルの道を放棄するなら、当然のことながら第二の道、つまり戦間期の「自国の完全主権の時代」に従う傾向がある。

しかし、このモデルは必ずしも民主的、自由主義的ではないことに注意することが重要なのである。

両大戦間の「完全主権」の時代は、大変短かった。ベルサイユ条約で独立が認められたのが1919年、1932年にはナチス・ドイツが第一党となり38年にはチェコスロバキアを解体、翌39年にはポーランドに侵攻した。

たった20年ほどの「完全主権」だった。この20年間は、苦難の時代だった。

ポーランドでは、1926年のクーデター後、急速に権威主義的な政権となった。

世界的に、大戦景気から一転、経済は不穏な動きを見せた時代である。1929年にはウォール街の株式取引所で株価が暴落して、金融大恐慌が起きるのである。

そして第二次大戦が起きて、戦後に東欧の国々はソ連の共産主義圏に組みこまれ、独立国ではあるものの、ソ連の支配を受けるのである。

ちなみに、日本も苦難の時代だった。1926年12月に大正時代が終わり、昭和の時代は1927年3月の金融恐慌から始まったのだ。その後の歴史は説明の必要はないだろう。

法の支配より大事な主権

1989年ベルリンの壁が崩壊、冷戦は終結した。

当時ポーランドでは、主権の保証には西側諸国との接近と必要であると考えられていた。西側とは欧州連合(EU)のことだ。

これはポーランドに限ったことではない。東欧の国々は、EU加盟を心から望んでいた。現在、ウクライナがEU加盟を悲願としているように。

冷戦終了時には、まだ欧州連合(EU)は存在していなかった。欧州共同体(EC)だった。共産主義体制であった東欧諸国をECに入れることには、慎重論や反対論があった。

激論の末「彼らを迎えて新生ヨーロッパをつくる」という意見が勝ったのは、1991年のことだ。そして1993年マーストリヒトでEUが誕生したのだった。

ヴィシェグラード・グループが設立されたのは、この時代である。ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーの3カ国が、EUやNATOに加盟するのに必要な改革を実施する事を目的に設立されたのだった(後にチェコとスロバキアが分離して4カ国になった)。

この時代は、東欧の国々だけではなく、ロシアも西側を向いていた。西欧の中には、ロシアをEUに将来的に加盟させるべきだという首脳すらいたのだ。

実際に、東欧やバルト3国などの10カ国がEU加盟を果たしたのは、壁が崩壊して15年後の2004年のことだった。

ヴィシェグラード・グループは、EUとNATOに加盟がかなった後、解散するという意見もあったが、この地域の意見をまとめる枠組みとして存続した。

しかしそれから時代は変わっていった。更に約10年後の2015年、ポーランドでは「法と正義」党が第一党となり、政権を取った。

この党は極右と呼ばれ、「主権主義」で、カトリック的な超保守の政権だ。党名とは裏腹に、民主主義に必須の「法の支配」が失われているとして、EUの基金の支払いが止められている。これはスロバキアやハンガリーも同じなのは、既に述べた。

「法と正義」党の創設者の一人であるカチンスキー元首相にとっては、少なくとも特定の場合では、主権を民主主義や法の支配よりも優先することは正当であるように見ていたのである。

同党のモラヴィエツキ前首相は、欧州議会での激しい演説の中で、「必要なのは、主権を持つ加盟国の主権に基づく決定である」という一文を3回も繰り返したことがある。

左はモラヴィエツキ首相(当時)。カチンスキー氏と。2023年10月。
左はモラヴィエツキ首相(当時)。カチンスキー氏と。2023年10月。写真:ロイター/アフロ

彼らは、EUのブリュッセルすら、独立の理想に対する脅威とみなすべきだと信じている。モラヴィエツキ前首相は、ブリュッセル(EU)が第三次世界大戦を引き起こす可能性があるとさえ示唆していた。

このように、「法と支配」党は、あまりにも奇妙で、ばかばかしいとさえ思える好戦的なレトリックを、外交政策において頻繁に利用していた。

ハンガリーのオルバン首相も同樣だ。東欧の「ポピュリスト」指導者たちは、いつかEUに対する自分たちの態度が多数派になるだろうと繰り返している。

主権への強いこだわりと、それを失うのではないかという恐怖。これらは、東欧の「ポピュリスト」政治家達が取ろうとしている方向性と、彼らに対する市民の支持が、どこから来ているかを説明している。

このような人々の恐怖と過去のトラウマは真剣に受け止められるべきであると、二人の学者は主張している。

ウクライナ戦争が変えた東欧の風景

この論考は、ウクライナ戦争の始まる数ヶ月前に書かれたものだ。

戦争は、ヴィシェグラード・グループの存在意義を、事実上終わりにした。

なぜなら、親ロシアの姿勢を見せるハンガリーのオルバン政権、ロシアのプロパガンダが成功しているスロバキアに対して、ポーランドとチェコは、断固として反ロシアの姿勢を貫いているからだ。

●参考記事

◎「NATOから離脱」が3人に1人のスロバキア。偽情報とディープフェイクの影響とは。EUとロシア(2)

◎東欧で何が起きているのか(1)スロバキアと極右とウクライナ戦争、ロシアとEU

戦争前、東欧の非民主的で自由主義を重んじない「ポピュリスト」と呼ばれる政治家たちは、EUの重要性にまったく気づいていないように見えた。

彼らは西欧の極右政党と親和性があり、西欧に仲間を見出すことで、自分達の主張が正しい、いずれ自分たちが正しいことが証明される、と考えていると言われる。

しかし、欧州に平和と安定があるからこそ好き勝手なことを言っていられるのであって、その平和と安定を築いている枠組みこそがEUであるということに気づいていないようである(あるいは、気づいていないフリをしている。英国がEUを離脱しても、後に続く国は一つもない事実がある)。

2021年11月ブタペストでのヴィシェグラード・グループの会合。左よりポーランド、スロバキア、ハンガリー、チェコの首相。起源は14世紀の反ハプスブルク連合である(ハンガリー・ボヘミア・ポーランド王)
2021年11月ブタペストでのヴィシェグラード・グループの会合。左よりポーランド、スロバキア、ハンガリー、チェコの首相。起源は14世紀の反ハプスブルク連合である(ハンガリー・ボヘミア・ポーランド王)写真:ロイター/アフロ

EUの重要性を、ウクライナ戦争は広く一般市民に気づかせたのだろう。

ポーランドでは、昨年2023年10月の選挙で、「法と正義」党は政権の座を維持できず、自由民主派で親EUである連立政権が復活し、トゥスク前EU大統領が首相に返り咲いた。

若者と女性の投票率が大変高く(若者の投票率は、どの国でも低い傾向にある)、民主化以降初めて投票率が70%を越えた。人々の中には、「法と正義」党の3期目を許したら、ポーランドの未来が決まってしまうという危機感があったという。

短い完全な独立期間→ソ連の支配(共産主義)→冷戦終了と民主化→大きな揺り戻し、の後の、未来への新たな力強い前進に見える。

2023年10月15日、ワルシャワで出口調査の結果が発表された後、事実上勝利した最大野党連合「市民連合(KO)」のリーダー、ドナルド・トゥスク氏が話す。
2023年10月15日、ワルシャワで出口調査の結果が発表された後、事実上勝利した最大野党連合「市民連合(KO)」のリーダー、ドナルド・トゥスク氏が話す。写真:ロイター/アフロ

公平を期すために詳細を言うのなら、4カ国は同じではないことは、付け加えておこう。

違いが生じた原因を歴史に求めるのなら、例えばハンガリーは第二次大戦時に独立国で、日独伊の枢軸国側で参戦している。また、産業革命が波及したか否か、したならどのような受け入れられ方だったかは、東欧の国々の社会の違いを見る上で、とても大きな要素である。

そして、ロシア、日本

上述のことは、ロシアやウクライナの未来を考える上でも、示唆に富んでいる。

プーチン大統領は昨年12月の演説で「ロシアのような国は主権なしには存在できない。最も重要なことは、主権を強化することだ」と述べた。

ここにも、主権という名の病が存在する。

ロシアという国が無くなったことはないのだが、ソ連消滅のトラウマを甘くみるべきではないのだろう。

しかし、遠い未来にロシアが再び民主主義と自由の方向にいくのだとしても、過去のロシアの歴史に、自由と民主主義が存在した時代はどのくらいあっただろうか。前途は険しいように見える。

それはウクライナも同様である。

12月14日モスクワで、プーチン大統領の「国民との対話」番組からの引用が表示された建物のファサード。自動翻訳によれば、AIを防ぐことは不可能なので我々が主導する必要がある、といった内容だ。
12月14日モスクワで、プーチン大統領の「国民との対話」番組からの引用が表示された建物のファサード。自動翻訳によれば、AIを防ぐことは不可能なので我々が主導する必要がある、といった内容だ。写真:ロイター/アフロ

ロシアが現在陥っているのは、懐古主義である。スターリンの復権を狙い、プーチンは18世紀の開明専制君主を模範とし、ロシア正教の地位が高くなっている。

このことは、中国や韓国北朝鮮など、東アジアの国々にもあてはまるのではないだろうか。植民地化されて国の主権を失ったトラウマである。

東欧の人々も同じだった。ベルサイユ条約体制化において、主権を「取り戻した」と言った。なぜなら、オーストリアやドイツ、ロシアの帝国の支配下にあった国々は、かつては自分の国をもっていたからだ。人権や民主主義という概念など全く存在しなかった、昔々の王や領主の時代。

現在のウクライナが、いにしえのキエフ公国をよすがにするのと同じである。ベルサイユ体制は1920年代以降だから、1世紀遅れている。

挫折と苦難にあった人々ほど、自分たちのアイデンティティを、過去に求める傾向が強くなる。最たる例は、ユダヤ人のイスラエル国家の再建かもしれない。紀元前8世紀に滅んだと言われる国家の、約2800年後の20世紀の再建。

しかし過去の歴史には、民主主義とグローバル化、そしてネットと携帯と人工知能という新しい時代に応じた、より良い社会の模範は存在しないのだ。

どんどん自信を失い、平和の危機を感じつつある内向きの日本でも、懐古主義が見られる。

しかし、第二次大戦後の短い米国占領期を除けば、国と主権を失ったことのない幸せな島国の日本人には、大陸の人々のトラウマや怨念を伴う懐古主義を理解するのは難しいに違いない。

日本のような国はむしろ世界の少数派であり、この感情を理解するよう務めなくては、世界の国家も人間も社会も歴史も理解が難しいだろうと、自戒をこめて思っている。

過去があっての現在ではあるが、新しい社会、新しい未来を築く強さが何よりも大事なのだと信じながら。

◎コラム 日本の民主主義と大正デモクラシー

日本は、世界でも類を見ない「明治維新」を成し遂げた。
西洋的な革命ではないが、革命に等しい体制の変化。これが植民地化を免れた大改革であり、現代日本の源であることは確かである。

しかし、筆者が高校時代に日本史教師に教わったところによると、「大正デモクラシー」は学者の間で評価が分かれているのだという。

検定に通った教科書の中で、数ページにもわたって、これでもかというほど「大正デモクラシー」を強調しているものもあれば、本文の中にはこの名前が一切出てこず、欄外に「これらの動きを大正デモクラシーと呼ぶ」と注意書きがあるだけのものもある、ということだった。
(この二つは極端な例で、たいていの教科書は中庸なのだろう)。

これは何を意味するのだろうか。
戦後の民主主義は明らかにアメリカがもたらしたものだが、それ以前において、日本の「市民」に民主主義への意志と運動があったからこそ、戦後日本は民主化に成功したのだーーと強調したい立場の人ほど、大正デモクラシーを強調するのではないかと思う。

筆者が高校生だったのは昔の話なので、今の状況はわからない。ただ、平成生まれの人にはピンと来ないだろうが、平成元年には、大正生まれの人は60−70代で、明治生まれの高齢者の方々もいた。生き証人がいる時代に、大正デモクラシーなど大げさすぎる、と否定する立場をとる教科書があったのは興味深い。

将来、もし日本が主権と民主主義を脅かされる深刻な事態になったら、大正デモクラシーは、我々自身が築いた民主主義の実績として、心のよすがになるような歴史足り得るのだろうか。

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。元大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省機関の仕事を行う(2015年〜)。出版社の編集者出身。 早稲田大学卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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