「イスラーム国」はイスラエルに味方する
2024年9月半ば以降イスラエルによるレバノン攻撃が激化し、レバノンでイスラエルとの戦闘の前面に立っていたヒズブッラー(ヒズボラ)のナスルッラー書記長をはじめとする幹部・戦闘員多数がほぼ一方的にイスラエルに殺戮される展開となっている。イスラエルによるレバノン攻撃により、2023年10月7日に「アクサーの大洪水」攻勢以来の衝突についての報道機関・政府当局による「ストーリー作り」も転機を迎えた。つまり、イスラエルによる一方的かつ意図的、無差別の破壊と殺戮を放任し、悪いのはイスラエルに敵対する個人や集団や国家・政府であるという、あまりにも旧態依然で工夫のない「ストーリー」がまたしても幅を利かせるようになったのだ。ところが、この古臭い「ストーリー」に、従来の西側政府や大手報道機関の他の「新しい」推進者が出現した。それこそが、みんな大好き(?)「イスラーム国」である。
「イスラーム国」とその仲間たちは、世界を自分たち(=正しいムスリム)と「その他(=異教徒か背教者)」の二種類でしか認識できない位に賢い生き物だ。だからこそ、彼らは「その他」を時と場と利害得失の計算抜きで教条主義的に攻撃するのではなく、個人なり組織なりの存続と成功という非常に崇高な目的のために時と場と俗世的利益をよく考えて「マト」を選んでいる。最近はアフリカの僻地で地元の政府軍や民兵、キリスト教徒に一般住民への攻撃が「イスラーム国」の戦果の中心だが、それだと「ニュースとしての価値」が低すぎる(注:殺傷される人々の人間としての価値の高低の話ではない)ので、「イスラーム国」としてもたまに(?)大手報道機関に注目していただけるような「戦果」が欲しくなる。そうした「戦果」を挙げたいときのマトの最有力の候補は、現在イスラエルと戦火を交える「抵抗の枢軸」陣営か、西側諸国と関係が悪いロシアとその仲間たちである。「イスラーム国」自身も、2024年9月26日付で出回った週刊の機関誌の最新号の論説で、上記のような立場を臆面もなく、しかも楽しげに表明してくれた。最近のイスラエルによる攻撃でヒズブッラーの幹部・構成員が多数殺傷されていることがよほどうれしかったらしい。論説は、「ラーフィダの枢軸」(注:一般に「抵抗の枢軸」として知られているもの。「イスラーム国」からはイスラーム共同体を攻撃するためにいんちきに見える)の行動はユダヤとの戦いに役立たないとの従来の主張を繰り返した上で、現在の紛争で「抵抗の枢軸」を支持する言動を繰り返すムスリム同胞団の系譜を汲む個人・組織の言動もこき下ろした。ムスリム同胞団は、パレスチナにおいてはハマースの母体となった運動だし、レバノンでもその流れを汲む「イスラーム団」がイスラエルとの戦闘に加わっている。
ここまでなら、多大な犠牲を払いながらイスラエルと戦い続けることによってムスリムの間で威信や名声を獲得するとともに報道機関の関心を独占する「競合者」に対する、妬みと非難に過ぎない。しかし、今般の論説で興味深かった点は、「アッラーのご叡慮により、ムジャーヒドゥーンがエルサレムに到達し、ユダヤとの真正な戦線を開くのは、スンナ派の裏切り者と不信仰ラーフィダが一体となっている無明の党派を根絶した後」と臆面もなく言い放ったことだ。また、今般の論説には、イスラーム過激派の伝統的な敵対者である十字軍・アメリカ、アメリカに従属するムスリムの為政者たちとの戦いについては一言も出てこない。要するに、「イスラーム国」は十字軍とその手先はもちろん、ユダヤ(注:「イスラーム国」は目か頭のどちらか、または両方が一般の常識から隔絶しても一向に構わないので「イスラエル」と「ユダヤ人/ユダヤ教徒」を区別することができない)との戦いを完全に彼岸化するどころか、イスラエル(注:「イスラーム国」には「ユダヤ」としか見えない)に加勢するも同然にイスラエルの敵対者を攻撃するという扇動をしたのだ。
もちろん、それだとあまりにもイスラエルに与する態度があからさまで格好悪いので、今般の論説にも「何処にあろうともユダヤの存在を攻撃することをためらうな」という文言が挿入されている。しかし、筆者が何度も指摘しているように、イスラエル(またはユダ)権益なるものは世界中どこにでもいくらでもあるので、本当に「イスラーム国」とその仲間たちがそれを攻撃するつもりがあるのなら「組織として政治的に意味のある形で」これらを襲うことはそんなに難しいことではない。にもかかわらず、「イスラーム国」は組織を挙げてこれらを攻撃するのではなく、「イスラーム国」の真似事をして自己顕示をしたい個人にそうした行動をけしかける程度のことしかできないのだ。もっとも、「イスラーム国」の真似事をして自己顕示したい人々の一部が、うっかり「イスラーム国」にとって本当は好ましくない「マト」を撃ってしまうことも起こりうる。こうした行為は、「イスラーム国」にとっては「敵対したくない当事者」からの反撃や取り締まりを招く、組織の存亡にかかわる迷惑行為だ。以上のような「大人の事情」により、「イスラーム国」はたとえ同派に忠誠を表明する動画類を伴う行動であっても、欧米諸国で発生する「イスラーム国」を称する通り魔事件を自派の「戦果」として公認するのをやめてしまった。より厳密に言うと、従来は自称通信社「アアマーク」による速報、詳報で通り魔犯の動画や画像を発信した上で正規の書式で戦果発表をし、機関誌の記事として取り上げるのだが、このうち「正規の書式での戦果発表」をやめてしまったのだ。これまでも、スイスやセルビアで発生した「ユダヤ」に対する襲撃について「戦果発表」せずに、機関誌の論説でちらっと触れただけで済ませている。また、直近では、8月末のドイツのゾーリンゲンでの襲撃事件(この事件では、容疑者が生きて逮捕されてしまったという「失態」を犯している)を「アアマーク」で「報道」しただけで済ませた。「アアマーク」や機関誌で触れておけば、後で都合のいい時に自派の戦果として取り込む伏線はりとして「イスラーム国」にとっては十分だ。しかし、「イスラーム国」やそのファンたちからの承認や賞賛を期待して通り魔事件を起こす者たちにとって、期待したような形で(この場合は「正規の戦果発表」で取り上げてもらうこと)承認・賞賛が得られないということは、いかにも格が落ちたようでみっともないことだろう。通り魔犯が死んで(≒「殉教」してしまえば現世での承認や賞賛の形式なんてどーだっていいという反論や言い訳もできる。だからこそ、現場での困難は重々承知の上だが「イスラーム国」のふりをする通り魔犯は「生かして捕える」べきなのだ。
ともかく、歴史的な展開を遂げているイスラエルとの紛争で、本来はイスラエルをイスラーム共同体から追い出すために全力を挙げるはずのイスラーム過激派である「イスラーム国」が、ユダヤとの戦いは後回しでイスラエルの敵たちを攻撃すると宣言した。これは、イスラエルに味方して「抵抗の枢軸」陣営を撃つと公言したと思っていい。筆者は、「イスラーム国」やイスラーム過激派はアメリカなどの手先で、アラブ・ムスリムを分断するための陰謀だという主張をするつもりは全くない。また、「イスラーム国」の振る舞いを「敵の敵は味方」などという幼稚な表現で片付けるつもりも全くない。今般明らかになったのは、「イスラーム国」がその出現以来熱心にシーア派や背教者殺しに励んできたのは、「イスラーム国」とその仲間たちの「宗教・宗派的憎悪や確信」が理由なのではなく、個人や組織の成功や存続という俗世的で理由に基づいて「イスラエルに味方した方が得」という結論に達した結果だということだ。もちろん、「イスラーム国」の振る舞いに「近視眼的な」という形容詞をつけることは、近視の人々に失礼な不適切表現であることは言うまでもない。