94年中間選挙結果がその後の日米関係と世界の構図を決定づけた
フーテン老人世直し録(678)
霜月某日
米中間選挙の投開票日から2週間が経っても連邦議会の議席は確定しない。上院はジョージア州の規定で決選投票が12月6日に行われることになっているが、下院で共和党が過半数の218議席を獲得し、民主党が212議席までくると、なぜか選挙報道が途絶えた。残る5議席がどう配分されるか分からぬままだ。
すると米国メディアで共和党下院のトップであるケビン・マッカーシー下院院内総務が下院議長に選出されるかどうかが注目され始めた。共和党下院議員の中にマッカーシー議員を議長に選出したくない議員が5人いるからだという。
もっと早く開票作業を終えていれば、誰が下院議長になるかのごたごたなど起きないと思うが、開票作業に時間がかかることから、国民には共和党のごたごたが印象づけられる。開票の遅れとメディア報道の背景に政治的意図があるのではと再び疑いたくなる展開だ。
米国民は自分たちの民主主義を世界で最も優れた民主主義だと考えている。そのため発展途上国や専制国家の選挙を信用せず、国連などを使って国際的な選挙監視団を派遣する。選挙不正が行われないよう監視するためだ。
10年ほど前だったか、ロシアのプーチン大統領が選挙不正を行っていると欧米メディアは騒ぎ、国際的な監視団がロシアの開票作業を見守ったことがある。その時日本から参加した学者に帰国後話を聞いたが、学者が言うには選挙不正など簡単にできるものではないという。
プーチンの獲得票数が余りにも多いので、それを欧米社会は不審に思った。しかし都会に反プーチンの動きはあっても、地方でのプーチン支持は凄まじく、獲得票数が多いのはそれを反映していた。ところが欧米は選挙不正と結びつけて騒いだ。そちらの方が問題だとその学者は言った。
今や国際的な選挙監視が必要なのは米国ではないか。その一方でフーテンは米国の民主主義の素晴らしさを知っている。知れば知るほど実によくできている。日本の民主主義など足元にも及ばない。というより日本は民主主義より官主主義の国で、それを国民は民主主義だと錯覚している。
だが米国の選挙で開票作業にこれほど時間がかかり、しかもメディアが印象操作を行っているかのような報道を見せられ、そして米国の深刻な分断の状況を見ると、選挙は第三国に監視させた方が良いという気がしてきた。
世界の範たる米国の民主主義は、世界の先頭を走ってきたが、行きついたところは分断と混乱の社会で、それを見た新興国は米国の民主主義とは異なる価値観を求め、それがウクライナ戦争以来顕著になったとフーテンは感じる。だから米国が呼びかけた経済制裁に欧米日以外の国は背を向けている。
ところで中間選挙は4年ごとに行われる大統領選のちょうど中間で行われ、選挙結果は大統領に不利に働く結果になるのが通例で、それ以上の意味はない。しかし1994年に行われた中間選挙は、冷戦後の日米関係に決定的な構図をもたらした。今につながる構図がなぜ作られたのかを知ってもらいたいので紹介する。
その選挙で93年に就任したクリントン大統領は大惨敗、その結果「日本に追いつき追い越せ」を目指したクリントンが180度方針を変え、日本経済を潰す一方、中国を経済大国に成長させるきっかけとなった。
以来、日本は「失われた時代」を迎えて凋落の一途をたどり、中国は日本を反面教師として大国への道を歩み出す。94年の中間選挙がその分岐点だ。その頃のフーテンはワシントンに事務所を置いて、米国議会情報を日本に送る仕事をしていた。
クリントンは92年の大統領選挙で支持率が90%近くあったブッシュ(父)大統領に勝利した。ブッシュは前任のレーガン大統領の新自由主義政策に反対で、「レーガノミクス」を「ブードゥー・エコノミー(おまじない経済)」と批判していた。しかしレーガンの減税と日本の輸出攻勢で財政赤字と貿易赤字の「双子の赤字」を抱え、ブッシュは不景気を脱することができなかった。
クリントンはそこを攻撃し、選挙演説では「すべては経済」を連呼し続けた。勝てるはずのないクリントンが勝利したのは、ロス・ペローという大富豪が立候補したからだ。ペローは財政赤字を批判し、福祉のバラマキを批判し、保護貿易を訴えた。これが保守派の票をブッシュから奪い、戦後生まれのクリントンに勝利をもたらした。
ペローの後継者が現在のトランプである。トランプはそもそも民主党員だったが、ペローの作った「改革党」に入り、しかしペローと違って「改革党」の候補ではなく、共和党候補となって共和党を乗っ取る作戦を立てた。
次の2024年の大統領選挙でトランプが共和党候補になれなかったら、トランプは第三党の候補として立候補する可能性がある。共和党がトランプを党の候補にしない選択肢は、共和党にとってプラスかマイナスか、簡単には判断できない。
当選したクリントンは大統領になる前、地元のアーカンソー州に全米から経済学者、経営者、労組代表らを集めて「経済会議」を開いた。中心課題は当時の日本経済の躍進に学ぶことだった。明治政府が「欧米に追い付き追い越せ」を目標にしたように、クリントンは「日本に追いつき追い越せ」を目標にした。
その中でクリントン夫妻が目をつけたのは「国民皆保険制度」である。米国では高齢者と貧困層に対する公的保険制度はあるが、一般の国民は民間の医療保険に加入する。そのため医療保険未加入者が多い。それを解決しようとした。
ファースト・レディのヒラリーが先頭に立ち、クリントン政権は「国民皆保険」の実現に向けて全力投球した。ところがそれが中間選挙の大惨敗につながる。米国民は「国の世話になるより自立」を好み、税金を使っての福祉を好まない。それが分かるとクリントン夫妻は180度の転換を図る。
当初のクリントン夫妻はリベラルだったが、選挙後クリントンは「大きな政府の時代は終わった」と宣言、レーガン以来の新自由市議的政策を次々に取り入れた。そして夫より有能であることを自負するヒラリーも内助に徹するようになる。民意を尊重すると言えばその通りだが、権力を維持するためなら政治家は180度変わることをフーテンは知った。
一時は目標とした日本経済のマイナス面を洗い出し、それを米国に都合の良いように変更させる。それがクリントン政権から宮沢政権に突き付けられた「年次改革要望書」である。その中で日本的商習慣や日本独特の経済的仕組みは排斥され、米国と同様の仕組みにすることが求められた。以来、日本の官僚機構は「年次改革要望書」に応えるのが主な仕事になった。
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