本物の悪にはタブーはない。映画『悪意が忍び寄る時』
この作品の悪にはタブーがない。
例えば、社会的な弱者に対する配慮がない。子供だろうが、年寄だろうが、妊婦だろうが、障害のある者だろうが、貧乏人だろうが、差別に苦しむ人間だろうが区別しない。配慮どころか、むしろ弱者をいたぶるのを楽しんでいるような感じだ。
例えば、動物に対する愛護の精神もない。ヤギだろうが、犬だろうが、家畜だろうが、ペットだろうが道具のように使う。悪にとっては害を与えるためのツールに過ぎない。
例えば、人の気持ちに対する尊重がない。男女の恋とか、仲間への信頼とか、子供への愛とか、家族の絆とかがあるからといって、態度を変えるようなことはしない。いや、むしろ裏切りや不義理や不倫が大好きなようで、私たちの絶望や後悔を見て笑っている。
つまり、哀れみも共感もなく非情でどうしようもない最低最悪の存在が悪なのだ。
■悪にモラルを求めるのはお門違い。だが…
――というか、悪だから悪いのは当たり前なのだが、我われは本物の悪には慣れていない。悪が悪らしく振る舞う、剝き出しの容赦のないシーンには慣れていない。
というのも、これだけ悪や悪魔に関する作品があふれていても、作り手が鑑賞者に対して配慮や遠慮をしてしまうからだ。
例えば、子供には危害を加えないという暗黙の了解がある。
ホラーやスプラッターでも子供は犠牲者にならない。弱者である子供が虐げられることに我われは拒否反応を示してしまうからだ。
動物への虐待もセンシティブな問題だ。
映画だからフィクションなのだが、それでも傷つく人がいる。だから、わざわざ「本作品では動物の虐待は一切していません」という但し書きが入る。
人間として心を大切にするという価値観は常にある。
だから、家族愛とか夫婦愛とか親子愛とかには映画の中でも特別の役割が与えられる。まあ、それが行き過ぎると、家族サバイバルもののパニック映画で、他人はバンバン死んでも家族だけは死なない、という不自然な物語を作ってしまうのだが。
※参考記事:甘っちょろい「家族の絆」の話ではない残酷さ。映画『酸性雨』(ACIDE)
つまり、我われは悪を描くのに人間のモラルを適用しているわけだ。
人間のものさしでタブーを作って、悪が悪らしさを100%発揮することを阻害している。「子供は殺さないでね」「動物はダメだよ」とか悪に念を押す。悪にはモラルもタブーもなく、モラルもタブーもないからこそ悪なのに、だ。
■悪に悪を描かせたら、この作品になる
そんなこざかしい人間のルールを適用せず、悪に悪を描かせたらこういう作品になるだろう、というのが、この『悪意が忍び寄る時』(Cuando acecha la maldad)である。
リミッターが外れて全開になった悪のパワーの前には、人間なんて取るに足らない存在であることがよくわかる。本物の悪に対抗できるのは神だけなのだろうが、この作品には出てこない。よって、悪に人間が一方的に蹂躙される場面が続く。タブーも検閲もない衝撃のシーンがハイテンポで叩き付けられる。
びっくりすると同時に、“ああ、これが悪なんだよね”と気付かされる。我われはオブラートに包まれたボカシ入りの甘っちょろい悪、人間のモラルに従う悪に慣れさせられていたのである。
『悪意が忍び寄る時』は2023年シッチェス・ファンタスティック映画祭の最高賞を受賞した。クライマックス付近でテンポが落ち、主要人物たちが意味不明の行動を取り始めてややストレスが溜まるのが難だが、私たちの悪への見方を変えてくれる。必見です。
※写真提供はシッチェス映画祭