アルプスのシスティーナ礼拝堂? 南仏の秘境で宝物に出会う。
「アルプスのシスティーナ礼拝堂」の異名をとる礼拝堂が、南フランスの小さな村の森の中にあります。
礼拝堂の名前は「Notre Dame des Fontaines(ノートル・ダム・デ・フォンテーヌ)」、村の名前はLa Brigue(ラ・ブリーグ)。前々回の記事で紹介した絶景鉄道「Train des Merveilles(トラン・デ・メイヴェイユ)」の沿線、終点タンドの一つ手前の村です。
人口500人ほどの村の中心からおよそ4キロ。森の中にひっそりと佇むチャペルは小さな箱のような形をしていて、中に足を踏み入れたとたん、しばし言葉を失ってしまいます。壁という壁、そして天井にまでびっしりとフレスコ画が描かれているのです。総面積にして220平米といいますから、チャペルの中に身を置けば、壮大な絵巻物に囲まれているような気分になります。
描かれたのは15世紀。もちろん聖書のストーリーが題材になっているのですが、「中世のバンデシネ(漫画)」と地元観光局の方が言う通り、めくるめくように展開するシーンの連続は、難しい絵画解釈以前に圧倒的な雄弁さがあります。
ところで、どうして人里離れた場所にこんな宝物のようなフレスコ画があるのでしょう?
そもそもこの地方は地中海と北イタリアとを結ぶアルプス越えの要所でした。とりわけ地中海からの塩を運んだ塩街道にあり、権力者たちが欲しがった場所です。中世の昔には地元の貴族やサヴォア王国が覇権を争った歴史がありますが、近代になっても国の綱引きの舞台となり、フランス領になったのは1947年、第二次世界大戦後のことでした。
礼拝堂の名前にある「ノートル・ダム」は聖母マリアのことですが、「フォンテーヌ」には泉という意味があり、それが複数形になっています。というのも、この場所は複数の泉の湧く場所として特別な意味を持っていました。
こんな逸話があります。あるとき突然、泉の水が枯れてしまい、村は大いに困窮しました。そこで聖母マリアに祈りを捧げると奇跡のようにふたたび水が湧き出たのだとか…。
泉が枯れるきっかけになったのは、おそらく地震などの天災によるものといわれています。フランスで地震というのはあまり聞きませんが、イタリアに近い地方やアルプス周辺では無縁ではありません。この村でも16世紀のニース地震のときに城が全壊したという歴史があるほどです。
そもそも水の生まれる場所は聖なる場所とされていたわけですが、このような経緯から聖母マリアに捧げる礼拝堂が築かれ、人々の篤い信仰の地となり、15世紀には北イタリアで活躍していた画家による圧巻のフレスコ画で彩られ、現在に至るまで守り継がれているのです。
祭壇の周囲の壁はGiovanni Baleison(ジョヴァンニ・バレゾン)によるもので、それからしばらくしてGiovanni Canavesio(ジョヴァンニ・カナヴェジオ)が両脇と入口側の壁を完成させたのが1492年のことだそうです。
個人的には「最後の審判」の地獄絵がとても印象的でした。
アルザスの町コルマール、ウンターリンデン美術館の「イーゼンハイムの祭壇画」やマドリッドはプラド美術館で観たボッスの「快楽の園」など、いずれも旅の記憶に残る歴史的名画を彷彿とさせるような感覚。シュールレアリズムに先駆けること何世紀も前にこのような表現がされていたことに少なからず驚きを覚えます。
すこし調べてみると、地獄絵の骸骨の構図はニューヨークのメトロポリタン美術館所蔵のヤン・ファン・エイク作「キリスト磔刑と最後の審判」に似ています。フランドル派を代表する画家、ヤン・ファン・エイク作品のほうがこの礼拝堂のフレスコ画より半世紀ほど前に描かれているので、画家であり牧師でもあったカナヴェジオは、先達の絵を実際に目にしていたのかもしれないという想像が膨らみます。すると、当時の北イタリアとフランドル地方との交流が想われ、今とは違う力関係の世界地図がたち現れるような気がします。
それにしても、ウンターリンデン、プラド、メトロポリタン美術館という、錚々たる美の殿堂の作品を引き合いに出したくなるほどのフレスコ画。それがこんなアルプスの谷間の森の奥深くにひっそりとあることが奇跡のように思えます。
ちなみにこの礼拝堂には電気が通っていないので、明かりは小さな窓から差し込む光のみ。また、ラ・ブリーグの村の観光客はコロナ前の繁忙期でも多くて1日150人くらいとのことですから、オーバーツーリズムとは無縁の状態で保たれてきたことがフレスコ画の保存状態に幸いしているのかもしれません。
さて、そんな知る人ぞ知る宝物を秘めたラ・ブリーグの村そのものもとても魅力的です。その様子は下の2つの動画からご覧ください。