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大学から講義がなくなる時代 学生の成長の観点から大学を改革せよ

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(ペイレスイメージズ/アフロ)

 2月25日、東洋経済オンラインに「技術革新に抵抗する「大学」は時代遅れだ」と題する記事が掲載された。ハーバード大学の経済学者、ケネス・ロゴフ教授の記事である。

 インターネットが生まれたことで、社会はめまぐるしく変わっていった。それなのに、かねて社会の発展を担ってきたはずの大学は、ゆっくりとしか変化していない。すでに音楽やスポーツ、エンターテインメントの世界では、世界トップクラスの教授や講師たちによる質の高い講義が配信されている。しかもAIのような先進テクノロジーは、教育形態すらも変えようとしている。大学は技術革新を受け入れ、それを利用することで、変革を遂げなければならない。

 以上が、ロゴフ教授の主張である。筆者は大学の教員だが、おおむねこれに同意する。技術の進展によって、情報も知識もあまねく存在するようになった。そのような状況のなか、大学だけが自分たちの領域を守り続けていくことは不可能である。しかも、国家の行く末を左右するのは、教育だ。大学のもつ高度な知識を広く社会に展開し、産業の発展を担うことが求められる。

 変化に抵抗することはできない。新たな価値は次々と生まれてくる。大学もまた生き残りをかけて、変革を遂げなければならない。とりわけ重要となるのは、学生への対応である。おとなしく教室でお仕着せの講義を聴かせるだけのスタイルは、ますます時代遅れになっていくだろう。かといって講義の配信だけでは、大学の必要性はなくなっていく。

いま求められる大学改革

 「学歴ではなく「学習歴」を見る時代:ビジネスの観点から大学を改革せよ」の中で、あえて荒っぽい言い方をしたところがあるが、大学における学問の意義について述べた。なかにはロゴフ教授の主張に反対するところもある。改めて、新しい時代における大学の目指す姿について述べていきたい。

 大学における学問は、たんなる知識の習得であってはない。たしかに知識がなければ正しく行為することはできないのだから、ある程度それは必要であろう。しかし大学を卒業したあとは、社会のうちで実際に生きることになる。次なる時代において、生きるための力を身につけさせることが、最後の教育機関である大学の使命となる。

 このことは、すべての学問分野においていえる。例えば人文学でいえば、ものの考え方とか、深い思考とか、ものごとや人間のふるまいについてのよしあしの理解といったものは、学生にとって大いに価値がある。近代の自然科学は、人文学の助けがなければ成立しえない。社会科学も同じあり、単にスキルを高めたからといって、人間がそれを正しく使わなければ社会は滅びてしまう。いずれの学問も、生きる力を育むためには必要なのである。

 しかし、一方通行の講義などは、動画の配信でもよかろう。それを真面目に聴くかどうかは、カネを払っている学生の自由だ。大学生ともなれば、知識を覚えるだけで終わっていいはずがないことは理解できよう。そうでない者は目的をもって大学に来ていないのだから、辞めさせたほうがよい。日本の大学も卒業要件を厳しくし、よき人材を輩出することを目指したほうがよいのである。社会に必要とされる学生を育て上げることで、教育機関としての大学は、今後も必要とされ続ける。

 それでは大学は、例えばハーバード大学の優れた講義を配信すればよいのか。そのようなことはない。個々の講義には、個々の目的がある。すなわち、それぞれの大学の目指す学生像へと成長する手段として、講義が存在するのである。ハーバード大学の目指す学生像が、筆者の所属する皇學館大学の目指す学生像とは限らない。否むしろ、世の中に必要とされるためには、そうであってはならない。まずもって大学は、卒業したあかつきにはどのような学生になれるのかを、明確にしなければならない。それを学生にメッセージとして伝えられるようにしなければならないのである。

 講義をしないのであれば、教員は大学で何をするのだろうか。ロゴフ教授のいうように、学生を能動的な学びへと巻き込んでいくような、討論や演習である。だから筆者は演習で、週に一冊の本を学生に読んでこさせ、議論させるのである。学生はそれぞれなりたいものが異なるし、それゆえ成長の仕方もまた異なる。そうであるから、特定分野の教育についてよく理解している教員が、一人一人の考えを聴き、適切に促すことで、一歩ずつ成長させるべきなのである。

 学問分野によって、能動的な学びの形態は変わってくるだろう。しかし人は、実際に行為することによって多くを学ぶ。よって可能な限り、その学問を活かして何らかの体験を積むように促すべきである。すでにラーニングピラミッドにおいて、実践経験を積むことで75%という高い学習定着度が図れることが示されている。そして自らの経験を語ること、人に教えることは、実に90%もの定着度が得られる。したがって演習では、議論のほかに活動発表の時間を設けたほうがよい。人に教えられるようになったときに、ようやく習熟したといえるのである。

一人一人に寄り添う大学教育

 経験によって学ぶことが求められるのだから、大学教員は、学外においても学生の面倒を見ることができるように準備しておかなければならない。しかし言うまでもなく、大学の先生にも生活がある。そのため、常に現場で寄り添っていることはできない。

 だからこそ、テクノロジーを利用するのである。インターネットが台頭したいま、メールやSNSを利用すれば、いつでもどこでもアドバイスをすることができる。どこかに資料を格納しておけば、どの資料を復習すればよいかも指示できる。学生の起きている時間は、すべて学習の機会となる時間である。機会をとらえて支援できる環境をつくっておくことが、大学には求められる。

 最後に、それでも筆者は付け加えておきたい。教員は、学生と会わなければならない。学生が悩んでいるとき、困っているときに、目の前で話を聞いてやらなければならない。人は必ずしも合理的ではない。心があり、感情があるのが人間である。たとえAIが正しい判断を下したとしても、自分に親身になってくれる一人の人間のほうを信頼するのが、人間なのである。目指すべきは人間の成長であって、ロボットではない。だから教員は、人間らしく振る舞い、彼らの隣で成長を支えなければならないのである。

 結局のところ最後には、人間が人間を育てるのである。無機質に思われる知識の教授ではなく、心をもった人間として行う教育が、これからの大学の教育となるであろう。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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