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「年収103万の壁」の上限引き上げに抵抗したい財務省の言い分をご説明する

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:イメージマート)

 国民民主党が「年収103万の壁」を撤廃し、178万円まで引き上げることを主張しているが、財務省としては抵抗する姿勢を打ち出しているようだ。

 報道にも取り上げられているが、10月31日の国民民主党の玉木雄一郎代表のXには「財務省がマスコミを含めて「ご説明」に回っている効果はさすがです。今朝の朝刊は各紙こぞって「7.6兆円の減収」「高所得者ほど恩恵」とネガキャン一色」との投稿がされている。

 ここでいう「ご説明」とは、マスコミや政治家、著名な学者、各種の経済団体の関係者に対して組織的に行われる、財務省による組織的な根回し活動のことだ。それぞれの財務官僚が、個人的なつながりに対して統一的な情報提供を行うことで、論調を誘導する。そうすることで、自分たちの政策を有利に進めることを目指している。

 本当に財務省が「7.6兆円の減収」と「高所得者ほど恩恵」に焦点を絞って「ご説明」を行ったのだとしたら、大衆心理をよく理解している。大衆は、一時的な減収のあとは増税が待っていると予感するし、103万の壁の引き上げが低所得者には不利に働くと思わせれば、いつもの「金持ちvs貧乏人」や「高齢者vs若者」といった国民同士の対立の構図に論点を移し、作られた敵に矛先を向けることが可能だからだ。

 だとすれば、それは玉木氏の表現通りキャンペーンであり、大衆誘導的な活動といわざるを得ない。国民民主党の肩をもつつもりはないが、玉木氏のいう手取りを増やす政策は、経済を回すためには重要である。インターネット上では、キャンペーンに対してキャンペーンで対抗する風潮がみられるが、ここでは基礎的な知識を整理しながら、なにが本当の論点なのかを明確にしていきたい。

なぜ「103万の壁」を引き上げるのか

 まずは「年収103万円の壁」とは何を指すのかを整理したい。多くの人はご存じと思うので、次の段落は飛ばして頂いて構わない。

 103万円の壁とは、給与所得の年額が103万円を超えると、所得税が課税され始める年収額のことである。所得税は、手元に入ってくる金品である収入ではなく、そこから必要経費を差し引いた金額である所得に対し、課税される。うち、年間所得が2400万円を超えなければ、働く形態にかかわらず、誰でも48万円の基礎控除が、課税される所得から引かれる。次にサラリーマンやパート、バイトなどの給与所得者は、自営業などと異なり必要経費を落とせない代わりに、さらに最低55万円の給与所得控除が引かれる。給与所得控除は年収に応じて高くなる。

 よって給与所得者の場合、所得税は103万円を超えた部分からが対象となり、それ以下であれば所得税はゼロになる。このうち、例えば基礎控除を現在よりも75万円引き上げることで、国民の支払う所得税を減らすというのが、国民民主党の主張だ。そして「政府の試算」では、その場合には国と地方の合計で年7.6兆円の税収減になるというのが、今回のネガキャンの内容となる。

 「高所得者ほど恩恵」が不明との声があるが、ようするに累進課税のことである。ときに勘違いされるが、累進課税とは一定の所得ラインを超えた金額ごとに、税率が高くなる制度だ。よって上記103万を含め様々な控除が引かれた後の「課税される所得」のうち、195万円未満の部分が5%、195万円から330万円未満が10%、330万円から695万円未満が20%の税率となる。基礎控除が増えると「課税される所得」が減るから、高い税率にかかる分の税金が減るのである。

 それでは、国民民主党はどうして基礎控除等を引き上げようというのか。ご存じのように現在は、物価が上がり、それを追いかける形で、所得も徐々に上がってくる。すると累進課税の制度では「課税される所得」もまた増えてしまうため、実際には支払う所得税が多くなってしまうのだ。これを経済学ではブラケットクリープ現象といい、ごく基礎的な知識なのだが、政府は説明しない。それを無視して「減収」とか「高所得者に恩恵」とばかりいうのは、やはりおかしいのである。

 基礎控除と給与所得控除を足した103万という金額は、1995年から変わっていない。理由はデフレが続いていたからであるが、過去には1989年から1994年に100万円(35万円+65万円)、1984年から1988年は90万円(33万円+57万円)と、物価が上がるにつれ引き上げられていた。そして1995年時点と比べると、最低賃金のほうは1.73倍ほどに増えている。であれば年収の「壁」の金額も、1.73倍の178万円とするのが妥当だというのが、国民民主党の主張である。

 よって引き上げは、減税というよりはむしろ「調整」の範疇を超えていない。先に国民民主党の肩をもつつもりはないといったのは、当たり前のことを当たり前に行うと主張しているだけだからだ。否、その真っ当な、当たり前の政策が実現できない現在の政治にこそ、問題があるといえようか。キャンペーンまみれの政治に翻弄されるわれわれ国民は、いかなる姿勢によって対応すべきであろうか。

財務官僚の名簿は公開されている

 マックス・ウェーバーは『支配の社会学』の中で、官僚制の特徴は規則により、職務権限が明確化されていることだと述べた。また社会学者のロバート・K・マートンは、本来の官僚制は国民の利益を目的とし、専門性のゆえに合理的な政策を行うための制度だが、制度や手段であるはずの官僚制を維持することが目的化し、省庁の利益が優先する「逆機能」があることを指摘した。

 この点に目を向ければ、財務省という省庁の性質が分かるようになる。本件でインターネット上では、財務省は卑怯だとか、個人名を明らかにしろとか、様々な意見がみられる。いうのは構わないが、財務省はそれほど卑怯ではない。彼らは組織であり、会社員と同様、当面の税収を増やすという自身が高く評価される仕事を、現行の規則や規範の中でこなしているに過ぎないからだ。

 実際、財務省幹部の名簿は職名つまり各自の役割とともに公開されている。いまどきネットで調べれば、誰がどのような仕事をしていて、どういう経歴や人物像かも判別可能である。その意味では、財務官僚は逃げも隠れもしていないし、出来ないのだ。よって問題は、われわれ主権者である国民が、彼らを監視できていない点である。権力の暴走を食い止める知識がなく、正しく反論できないことにある。

 本来、そのような知見のある人が国民の代表として政治家になるべきだが、現状われわれ国民は、政治家の素養のない人を当選させてしまっている。アリストテレスや、保守主義の父エドマンド・バークは、統治に関する実践的な能力を政治的思慮と呼んだが、その意味では当たり前のことを当たり前に行うべく、実践の仕方を講じる国民民主党は、保守政党といえるのだろう。

 代表民主制の本義からすれば、代表者が官僚を監督する責任があるが、現実には難しいのだ。であればわれわれ国民は、自分の財布の中身と身の安全くらいは自分で守るべく、正しい知識をつけ、意見を発しようではないか。何度も繰り返すが、いまどきネットで発信するのは誰にでもできる。知識を相互共有し、議論することで大衆ならぬ民衆となり、機能する社会をつくり上げていきたいものである。

【参考】

甘えた権力者の「おねだり」を抑制する仕組みを整える

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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