学歴ではなく「学習歴」を見る時代:ビジネスの観点から大学を改革せよ
9月29日、東洋経済オンラインに「水面下で広がる就活「学歴フィルター」の実態」という記事が掲載された。
記事によると、1001名以上の大企業の55%が、いわゆる学歴フィルター(ターゲット大学)を設定しているようである。いくぶんかの企業は「オフィシャルな回答」をしているであろうから、もっと多いはずである。
ここで筆者は、学歴フィルターに象徴される我が国の就活事情が、我が国の産業の衰退を招いていると主張したい。大学に入るための能力と、仕事を行うための能力にはまったく関連がないことは明らかであり、それゆえまた、偏差値の低い大学の学生に諦めの気持ちをもたせてしまうからである。
ゆえに学歴フィルターは、企業にとっても社会にとっても害悪でしかない。ビジネスにおいて高い成果を上げているグーグルでは、大卒は社員の半数しかいない。効率的な新卒採用のために学歴フィルターには合理性があるとのたまう者もいるが、そのような意味における合理性はビジネスの成長にはなんら意味がない。目的は効率ではなく、効果である。優秀な人材を確保するために、企業は戦略的に採用活動を行わなければならないのである。
当記事では、こうした就活事情をもたらしている原因と、その解決方法について、述べていきたいと思う。
企業のせいではない、大学のせいである
はっきりいってしまえば、こういった就活事情の原因は大学にある。つまり我が国の衰退の原因は、大学教育の不備にある。とくにいわゆる文系学部をもつ大学に、その責はある。
昨今の就職活動では「大学時代に学んだことは何か?」が聞かれる。筆者は事実、勉学をよく頑張ってきたから、就活においても「勉学です」と答えていた。大学時代にはいずれ日本をよくしたいと思っていたため、そのための様々な学びを得ることに力を注いでいたのである。しかしその後で、必ずといっていいほど問われたのは「勉強以外で頑張ったことは何か?」であった。この傾向は、文系学部を出た学生の就活において、とりわけ顕著である。
幸い筆者は、学外でも「勉強」のために様々なことを行ってきたから、就活を乗り切ることができた。しかし本来、学生の本分は勉学である。ゆえに勉学と答えたほうが正解のはずである。しかし実際はそうではない。勉学を一番に頑張ってきた学生はいらないのである。
このことが意味するところはシンプルである。すなわち、大学での勉強は社会人になってからは意味がありませんよ、ということである。それよりも、課外活動で何を学んできたかのほうが、企業には意味があることだと思われているのである。
そして、たしかにそうなのである。多くの大学の法学部とか経済学部、あるいは文学部は、一応特色のありそうなカリキュラムやポリシーを組んではいるものの、実際にはやっていることはさほど変わらない。のみならず、これまで大学の教員は、自分たちの教えられることを教えてきた。つまりそれは、必ずしも学生の求めるもの、あるいは社会において学生の能力として活かせるものではないのである。フランス革命についての詳細な知識は、少なくとも我が国での仕事においては意味がない。
よって多くの大学は、大卒資格を出すための機関となっている。そして大半の学生も、それでよいと思っている。そうであれば、企業は単一の指標でみたときの優秀さしか測ることができなくなる。すなわち、入学時の偏差値である。よって就職活動では、学歴の低い者を切り落とし、なるべく高い者、受験勉強のできる「優秀」な者を採用する。そのほうが入社後に伸びる可能性があるからだ。
しかし大学が偏差値の良し悪しのほかに程度の高さを測ることができないのであれば、企業は衰退していくしかない。ビジネスは多様性によって生まれる。とりわけ知識の多様性によって生まれるからである。大学がこのような状況では、各々の社員は他の社員と同質の知識しかもてなくなる。他の社員と同じ意見しかいえなくなる。これではイノベーションなど生じるはずがない。人材の多様性がなければ、強靭な組織はつくれないのである。
学生のせいではない、大学のせいである
学生はそういうことをおおむね理解しているため、とくに文系の学生は、大学での理論的知識ではなく、勉学以外の知識を得るために学外活動に勤しんでいる。自分なりの個性、特性を発揮するための経験的知識を得ることのほうが重要だからである。むしろ学生はセンスがよいといえよう。しかしそれゆえに学生は、学歴だけではもはや就活を突破できなくなっている。
いわゆる理系は、就活において何を研究してきたかが重視される。仕事に直結するためだ。しかし文系は、それがたとえ経営学であっても、何を勉強してきたかは仕事にはあまり関係ない。そうであるから学生は、学業がおろそかになる。深い洞察を生み出すために必要な知性を育むことができなくなるのである。薄っぺらな意見しかいえないハウツー人間が生まれるゆえんである。
学生のせいではない。教育の意味や目的、学問の意味を伝えることをおろそかにしてきた大学のせいである。よって学生は、大学の被害者である。その勉強が何のためにあるのか。それを学ぶことによって将来何の役に立つのか。この学部を出たらどのような人間になれるのか。それらのことがわからないままに大学に通っている学生の何と多いことか。しかし学生は、大卒資格を取得するために、毎日健気に大学に通っているのである。
第一に大学は、どのような学生を育てるのかを明確にしなければならない。大義を語るだけではいけない。実際にそれを実現できないのであれば、それは詐欺である。つまり教育の目的と、学生の成長における具体的な到達目標を一致させ、その線に沿った授業を再編成しなければならないのである。たしかに大学経営は、すでにある人的・知的資源、すなわち大学教員の能力や資質をもとに、経営するしかない。しかしそれでもなお、大学教員に新たな知識を身に着けさせ、この時代に合った学生を育てなければならないのである。
なお、文科省の「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」における冨山委員の提言は、方向性は間違ってはいないものの、さすがに極端すぎるというか、時代が読めていないように思う。「経済原論でサミュエルソンを読むことよりも、経営戦略論でマイケル・ポーターを読むよりも、簿記会計の基礎をしっかり身に付けることが真の「一般教養」であることは当然の結論」ということはない。経営学部の学生でマイケル・ポーターくらいは読んでおかなければ仕事をすることができなくなる。あるいは文学とか哲学といった人文科学系の教養は、思考の深さや視野の広さを育むことができる。この時代は知識社会の時代であり、それはすべての知識労働者に生産性を「高める」能力が求められる時代である。簿記会計のような職業人としての技能もたしかに必要だが、それは独学でも身につけることができる。むしろ大切なのは、この時代に合った学生とはどういった学生かを大学が真剣に問い、具体的な成長の姿を描き、そして結果にコミットすることである。教育の手段は、教育の目的に従属する。目的は大学によって異なるのだから、手段も大学によって違いが見られて然るべきである。
ビジネスでは学歴ではなく「学習歴」が重要
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」ビスマルクの言葉である。
一人の経験よりも、多くの人によって積み重ねられた経験、それによる教訓、蓄積された知識のほうが信頼できるに決まっている。それゆえ大学は、自分たちが教えるもの、学問の意味を、学生に教えなければならない。そして社会において有効活用できるものであることを、学生に伝えきることから始めなければならないのである。
それらの手段は、目的に沿っていなければならない。ゆえにその手段は、目的の達成のために有益でなければならない。各種の能力を、実際に身に着けさせなければならないのである。そのとき学生は、学びを学外活動に活かせるようになる。単なるハウツー人間になるため、就活のネタを探しにいくためではなく、現代における人間としての成長のための活動に力を注ぐことができるようになる。
そのような学生のもつ磨かれた素養、「強み」、高度な知識は、企業において有益である。単に多様性を求めることでは、烏合の衆になりかねない。個々が培ってきた高い能力を寄せ集めることが、強い企業には必要である。よって企業は、第一に、大学で何を学んできたかを学生に問わなければならない。次に、それを学外でどのように活かすことができたのかを問わなければならない。知的能力を実践において活かすことのできる知的労働者であるかどうかを、見極めなければならないのである。
これまでは学歴のある者が企業を支えてきた。企業は高学歴の社員を教育し、自社にとって必要な人材を確保してきた。しかしもはや企業だけにそれを背負わせていてはならない。新しい時代において、それほど教育は重要性を帯びてきている。よって大学は、教育という大学の本来の義務を、確実に果たさなければならない。強い日本を実現するために、自分たちの立ち位置を明確にし、社会で活躍できる人材を育てていかなければならないのである。