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「ダメな自分」の性格は意識すれば変えられるという研究

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:イメージマート)

 10月19日、Gigazineに「「人の性格は不変ではなく意識して変えることができる」と心理学者が主張」と題する記事が形成された。

 ケンタッキー大学のシャノン・ザウアー・ザヴァラは、人は自分の性格を意識して変えることができると主張している。世の中には様々な性格テストがあるが、科学的根拠に乏しい。またそれらの多くは、人の性格は固定的であり、生まれつきの性格から抜け出せないと仮定しているが、実際には性格は、時間の経過とともに大きく変わることができるという。

 多くの人びとは、性格を「自分自身の核」のようなものだと認識しており、性格が変われば元の自分とは異なる存在になってしまうと考える人もいると、ザヴァラはいう。しかし本来、性格は状況や環境に適応し、当人の心構えにも関係している。よって人の性格や振る舞いは、時と場合によって異なるものであって、まったく核ではない。本当の自分は、性格とは異なるものに見出される。

 ところで、人の性格は変えられるという事実は、少し心理学を学んだ人からすれば、当然といえる。よって、このような記事が書かれること自体、依然として世間では、人の性格を固定的に考える傾向が強いことを表している。そのため、性格診断の「よしあし」により人の適性を決めつけ、職務を充てがうなどすることで、当人の可能性が活かされないことがあるのだろう。改めて、性格というものの意味や位置づけを整理することで、人の扱いや生き方について考えてみたい。

性格とは何か

 俗に「性格」という言葉で表されるものは、いくつかに分けることができる。まあまあ用法が雑然としているのだが、ひとまず以下の通りまとめておきたい。

 ごく単純にいえば、「性格」には生まれつきの部分と、環境によって形成される部分がある。前者の生まれつきの部分を気質 temperament というが、気質には個人差があり、とくに感情面の反応における傾向を指すことが多い。生まれつき刺激に敏感であるとか、どうも怒りっぽいなどの傾向は、気質に関係するとみてよい。先天的なものだから、変化しないものと考えられている。「三つ子の魂、百まで」といわれるのは、気質のことと考えて差し支えない。

 しかし人は、その後の生活において様々な経験をし、人との関わりの中で自分を形成していく。この後天的な部分を性格 character と呼ぶ。一般に、性格には幼少期までに形成される狭義の性格、特定の社会や文化に属する人が共通にもつ社会的性格、特定の社会における自身の役割に応じて形成される役割性格に分類される。人がみな、子供っぽい感情をむき出しにするのを抑えられるのは、社会的性格や役割性格を育むからである。

 最後に、人格 personality という言葉を取り上げたい。人格は気質と性格を包括し、それに基づいて現実に表される思考や感情、行動のパターンを指す。あるいは人柄とか「その人らしさ」のように、他者から認知される個別性となる。例えば人格者という言葉が、当人の日常の振る舞いをもって、他者から「よい人格をもつ人」と評価されるときに発せられるのは、その意味による。よって、よい人格を形成することは、思考や行動をよい方向に変えることをいう。

 記事における「性格」は、英語では personality となっているため、ここでいう人格のことである。ザヴァラは、生まれや過去の経験、現在置かれた立場に基づく気質や性格ではなく、人格のほうを意識すれば変えられる、と言っているのである。元来 personality に由来するラテン語の persona は「仮面」という意味である。人格者というと宗教家などのイメージがつきまとうが、彼らの性格や腹の中はわからず、外面がよいだけの可能性もあろう。人間はみな「仮面」をかぶって生きている。

 このように、俗にいわれる「性格」とは、長い人生の中で培われた特性から、いま置かれた環境下における一時的な役割の中で表されるものまで含む概念である。そして人の目に映る個人のありようは、まさしく意識すれば変えられる。ザヴァラのいうように、人びとは人生において自身が望む成功を得るために、必要な特性を身に着けることができるのだから、自分の「性格」を型にはめ、その特徴に従って仕事や活動を選ぶのは間違いである。

「ダメな自分」を変える方法

 人間たるもの、過去の自分がどうであれ、これからの人格は意識すれば変えられるのである。ところで意識は、何らか達成したいと思う事柄に向かうときに直面する、越えなければならない障害に直面したときに生じる。普段の行動や振る舞いの多くは無意識によるものだから、その状態では変えることが難しい。意識し、自覚するには、まず達成したい事柄や自身の目指す姿を定めることが必要となる。

 遅刻癖があるとか、煙草を道端に捨てるとか、仕事をさぼり課題を先延ばしにするといった行為をするのは、それにより損失を被っても、人生には大きく影響しないと考えているためだ。たしかに人間関係が崩れ、仕事上の評価が悪くなっても、当面の生活には問題なさそうである。しかし人は、社会内に存在し、他者から信頼を得ることで、大きな物事を達成する過程を歩むことができる。「ダメな自分」は楽ではあるが、それでは何事かを成し遂げることはできない。

 正直いって「ダメな自分」を変えるのは相当きついものだ。よって意識して変わるには、ミッションとか使命感のような、強い達成意欲や思いが必要である。ハーバード大学のブライアン・リトルは、人間には大きな目標を達成するために、生まれもった「性格」を超えて行動できる力があると述べている。大切な何かのためならば、私たちは他者とともに、いまの自分を超えることができるのだ。

 本当の自分とは誰か。答えは、大義や目的の中に生きている自分である。ダメなキャラクターの外にいて、仮面という身だしなみを整えて、社会の中で力を発揮しようと努めている自分である。元の自分と「本当の自分」は異なる。「本当の自分」こそ、これからも大事に育んでいきたい自分の姿といえよう。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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