文鮮明は自民党安倍派を中心に対日政治工作を行うよう指示していた
フーテン老人世直し録(675)
霜月某日
11月7日の毎日新聞朝刊は、一面トップで「旧統一教会を創設した文鮮明氏が1989年に、自民党の安倍派を中心に日本の国会議員と関係強化を図るよう信者に語っていた」と報じた。韓国語で記された文氏の発言録615巻の中から毎日が翻訳・確認して判明したという。
安倍元総理の銃撃事件に端を発し、旧統一教会と自民党議員とのただならぬ関係はすでに「底なし沼」の様相だが、毎日新聞はその「底なし沼」の出発点が、1989年当時に安倍派会長を務めていた安倍晋太郎元外務大臣にあるとの見方を示したのである。
フーテンはこの記事に2つの意味で注目した。1つは当時のフーテンが政治取材の前線にいて、安倍晋太郎氏が自民党議員に働きかけ、旧統一教会の会員を秘書に雇い入れるよう働きかけを行っていたことは耳にしていたが、その裏舞台が初めて明かされたこと。
もう1つは、安倍晋太郎氏が毎日新聞OBであることから、毎日新聞は安倍晋太郎批判を控えると思っていたが、さにあらず、安倍晋太郎氏に焦点を当てた記事を掲載したことである。
記事によると、1988年に発行された旧統一教会系の政治団体「国際勝共連合」の新聞に、安倍晋太郎氏が勝共連合の懇親会で「皆さんにはわが党同志をはじめ大変お世話になっている」と挨拶した記事があり、すでに教団と自民党との関係が深まっている様子が分かる。すると翌89年に文鮮明氏も冒頭で紹介した「安倍派を中心に政界工作」の発言を行ったのである。
そして記事は文氏の発言を羅列する。いわく「国会内で教会をつくる」、「そこで原理を教育することで、全てのことが可能になる」、「国会議員の秘書を輩出する」、「体制の形成を国会内を中心としてやる」、「国会議員たちだけではなく、地方もそうだ。地方には皆さんがいるよね? 分かるだろ?」など文氏の発言の羅列だ。
これから分かるのは、旧統一教会が日本の国会に根を張り、国会議員を教育することで自分たちの目的を果たそうと考えていたことだ。そのため旧統一教会は教会員の中から国会議員秘書を輩出し、政界工作も国会議員だけでなく地方議員に拡大していこうと考えていた。
ただし文氏がこの発言を行った1989年7月は、盤石と思われていた竹下政権がリクルート事件の直撃を受けて退陣を余儀なくされ、代わって宇野宗祐政権が誕生したもののこちらも女性スキャンダルに見舞われ、自民党政治は危機的状況にあった。特に文氏が期待をかけた安倍晋太郎氏にとっては総理への道が暗転する時期でもあった。
1987年10月に任期満了を迎えた中曽根総理は、後継総理を自らが指名する「禅譲」を行った。竹下登、宮澤喜一、安倍晋太郎の3氏から中曽根総理が選んだのは竹下氏だった。竹下総理は次の総理を安倍晋太郎氏に託す考えで安倍氏を幹事長に就任させた。
従って1988年に安倍氏が「国際勝共連合」の懇親会で挨拶したのは、総理の座を目前にしていた時期である。ところが翌89年には竹下総理が退陣に追い込まれただけでなく、安倍氏も病気に倒れた。不吉な影が忍び寄る時に、文氏は信者を相手に「安倍派を中心に政界工作」を指示していたことになる。91年に安倍晋太郎氏は67歳で病没した。
フーテンがこの記事で残念に思ったのは、文氏の発言が羅列に終わってしまったことだ。できれば1956年から2009年までという膨大な文氏の「発言集」の全容を明らかにし、日本関連の発言がどのような意図を持つのかを、当時の日本の政治状況と重ね合わせて明らかにしてもらいたいと思った。
すると8日の毎日新聞朝刊も一面トップで、2006年に安倍晋三氏が総理に就任した1週間後に、文鮮明氏が信者に対し安倍氏の側近と面会するよう指示していたことを明らかにした。
しかしこの時期は安倍晋三氏が母親の忠告から教団とは距離を置いていたとみられ、それ以上には発展していない。関係が復活するのは第一次安倍政権がみじめな形で終わり、第二次政権が誕生するまでの失意の時期である。
2010年8月に安倍氏は教団幹部と記念写真を撮影し、2012年4月には捲土重来を期して昭恵夫人や後に秘書官となる今井尚哉氏などと高尾山に登るが、そこに教団関係者が複数同行していた。しかし文鮮明氏は第二次安倍政権誕生の3か月前に死去した。
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