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誰もが憲法9条に対してクリーンハンドではない、ということ ~今後の熟議のために(下の2)

楊井人文弁護士
日米共同統合演習に参加中の輸送艦しもきたと米駆逐艦ハルゼー (左奥)

(下の1)編

5 従来の政府解釈の妥当性が長年、批判を受けてきた、という問題

6 日米安保体制を選択して集団的自衛権と無縁でいられるのか、という問題

外部からの侵略に対しては、将来国際連合が有効にこれを阻止する機能を果たし得るに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する。

出典:「国防の基本方針」(1957年5月20日閣議決定)

安倍内閣の「国家安全保障戦略」(2013年)は、この「国防の基本方針」を56年ぶりに書き換えたものだったが、やはり日米同盟は「国家安全保障の基軸」と位置付けられている。(*1) 1952年の独立時に非武装国日本は「敗戦国に対する駐軍協定的性格」(*2)をもつ旧日米安保条約を受け入れざるを得なかったが、解釈改憲で自衛力を少しずつ整備しつつあった1960年に岸内閣のもとで締結された日米安保条約には「相互援助」という文言が付け加わえられた。その中核である第5条は、米国側が対日防衛義務(ただし、米国側に一定の裁量がある)を負う反面、日本側も(米国本土の防衛義務は負わないが)日本に駐留する米軍への武力攻撃の防衛義務を負う規定でもあった。(*3)

第5条 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

出典:日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約

この第5条は、「憲法上許されるのは個別的自衛権の行使だけで、集団的自衛権は一切行使できない」という従来の憲法解釈と緊張関係にあり、条約締結当時の国会でも論争となった。元共同通信の中村明氏によると、旧日米安保条約の改定交渉時に外務省側と緊密な連絡があったという内閣法制局の高辻正己元長官は、次のように語ったという。

“日本国の施政の下にある”米軍基地が武力攻撃を受ければ、日本としても“共通の危険に対処して行動することを宣言する”と規定している以上、日本国内では米軍を守るため集団的自衛権を行使することになる。しかしそれを敢て集団的自衛権行使と言わなくても、実際にやることは個別的自衛権の行使と同じことなので、岸首相、林法制局長官ら政府側は個別的自衛権行使で押し通したが、米国は、米軍基地を防衛するための日本の行動を日本の集団的自衛権行使と理解している。

出典:中村明「戦後政治にゆれた憲法九条ー内閣法制局の自信と強さ-第3版」西海出版、2009年、217頁

内閣法制局の自衛隊を合憲とする解釈改憲の核心部分は「必要最小限度」論だった。つまり、自衛隊は「自衛のため必要最小限度の実力」しか持てないし、個別的自衛権も「武力攻撃を排除するための必要最小限度の実力行使」、つまり国際法上認められる範囲よりも制限的にしか行使できない。「必要最小限度」論は、必然的に生じる防衛力の不足を米国の軍事力に委ねることと表裏一体でもあったということを、阪田雅裕元内閣法制局長官はインタビューで示唆している。

自衛隊はわが国に対する侵略を排除することができればいいのであって、逆に言うとそれ以上のことはできなくていい。それ以上のことができるようになうな部隊になると、とりも直さず9条のいう「戦力」にあたるという理解でもあるわけです。具体的にいうと、よく言われるように専守防衛。要するにもっぱら攻撃のためだけに使われる兵器は持てない。(…)でも、それだけで国の安全、防衛が完璧かいわれると多少疑問があるわけで、そこは日米安保条約でカバーをする。敵の領土において敵を攻撃する能力は、米軍に委ねるのだというのがこれまでの政府の考え方でした。

出典:阪田雅裕(聞き手・川口創弁護士)「『法の番人』内閣法制局の矜持ー解釈改憲が許されない理由」大月書店、2014年、217頁

日本の防衛は、米軍が「矛」で自衛隊が「盾」の役割を担っているとも言われ、どちらが欠けても防衛力として不十分と言われてきた。(*4) 自衛隊や在日米軍の実態を長年観察してきた軍事アナリストの小川和久氏・静岡県立大学特任教授も、こう指摘する。

自衛隊は一部だけが突出しており、ほかの部分はそれほどでもなく、全体として見れば国家レベルの戦力投射能力がありません。言い換えれば、自衛隊は「憲法第9条を絵に描いたような」姿をした戦力です。(…)このような、自立できない構造の自衛隊だけでは日本の防衛などできるわけがないのは、誰が見ても明らかです。そして、そんな日本の平和と安全を高いレベルに押し上げているのは、日米同盟なのです。つまり、日本の防衛力は自立できない構造の自衛隊という軍事組織と日米同盟(アメリカの軍事力)という二本の柱によって成り立っているのです。

出典:小川和久「日本人だけが知らない集団的自衛権」文春新書、2014年、38頁

日本の領海等概念図(海上保安庁ホームページより)。従来の政府解釈では、領海外(公海)の米艦防護は原則として集団的自衛権の問題になり、例外的に個別的自衛権で対応できるケースが不明確だった。
日本の領海等概念図(海上保安庁ホームページより)。従来の政府解釈では、領海外(公海)の米艦防護は原則として集団的自衛権の問題になり、例外的に個別的自衛権で対応できるケースが不明確だった。

今回、憲法の専門家たちが「憲法違反」と指摘するのと同時に、安全保障政策の領域に踏み込んで「解釈変更の必要性がない」「立法事実がない」「かえってリスクが高まる」と批判していた。しかし、そうした指摘を裏付ける安全保障分野の専門家はほとんど出てこなかった。全くいなかったわけでなく、反対の立場を示した実務・研究者の代表格として、「自衛隊を活かす会」の呼びかけ人となった柳澤協二・元内閣副官房長官補、国民安保法制懇の孫崎享元外務省情報局長らがいたが、会の趣旨にふさわしいゲストとして招かれたはずの冨澤暉・元陸上自衛隊幕僚長が明確に賛成の立場を示したように、専門家や実務家から法案の必要性を否定する声はほとんど広がらなかった。(*5)

自衛隊による米艦防護の現実的可能性を疑問視する東京新聞2014年5月20日付朝刊(左)と毎日新聞2015年8月5日付朝刊
自衛隊による米艦防護の現実的可能性を疑問視する東京新聞2014年5月20日付朝刊(左)と毎日新聞2015年8月5日付朝刊

たとえば、反対派メディアからは、自衛隊による公海上の米艦防護は現実的に必要性がないとか技術的に不可能といった指摘も出たが、軍事専門家の「自衛隊の能力について、あまりに無知」だという指摘が無視されていた。海上自衛隊は「制海(艦隊防護)能力をおろそかにしてきた」米国から頼りにされるような防護能力を備えた装備(イージス艦など)をもっており、米艦防護は十分可能だという指摘だ。(*6)

従来の政府見解のもとでは、日本を取り囲む広大な公海上を展開する米軍艦船等に武力攻撃がなされた場合(まだ日本への武力攻撃がなされていない段階)において、「我が国に対する武力攻撃の発生」に該当するかどうかは曖昧な答弁が行われてきた。(*7) この点について、阪田元長官は次のように解説している。

我が国に対する武力攻撃の発生というのは、評価の問題ですので、時代状況や戦術手法が変わってくれば変わる余地もあり、一概にわが国の領土・領海・領空内に攻撃を加えられなければ問題ないということでもないと思いますが、公海上の艦船一般を対象にするというのは、無限に広がってしまうので、それはもう単に口実じゃないかということになってしまいます。

出典:阪田雅裕(聞き手・川口創弁護士)「『法の番人』内閣法制局の矜持ー解釈改憲が許されない理由」大月書店、2014年、149頁

では、従来の憲法解釈で行使できるかどうかが不明確だった「公海上の集団的自衛権行使」が明確に「可能」になると、どのような意義があるのか。安全保障の専門家や元自衛隊幹部はそろって、平時からの共同訓練や情報交換が質的に変化することで抑止力が飛躍的に高まるとと指摘してきた。(*8)

いまや軍隊の任務の大部分、たとえていえば95%は平時の情報収集であり、抑止が崩れた際の軍事行動である実際の戦闘行動のウェイトは5%程度と考えていいでしょう。その5%の軍事活動が成功するかどうかは、95%を占める平時の活動にかかっています。(…)集団的自衛権の行使を前提としたら(…)「平時からの集団的自衛権」、すなわち武力行使とは別の次元の日常から有事まで、そして戦略から戦術レベルまでの、精緻な日米情報交換を自然体で行うことであり、広義の集団的自衛権ということもできるでしょう。このようなことの積み重ねにより、日米共同による抑止力は飛躍的に高まるのです。そのような視点がまったく欠落しているマスコミ報道は、今日の安全保障環境にもはやまったく通用しない、化石時代の戦争観に基づいたものでしかありません。

出典:香田洋二(元海上自衛隊艦隊司令官・海将)「賛成・反対を言う前の集団的自衛権入門」幻冬舎新書、2014年、32頁

日米安保条約第3条には、米国上院の1948年ヴァンデンベーグ決議(*9)の「継続的かつ効果的な自助及び相互援助」という文言が入っている。そうである以上、「集団的自衛権の行使」は常につきまとう問題であり、「集団的自衛権の言葉なんて使いたくなければ、同盟関係を解消すればいい。そして独自に防衛力を整備すればいい」(小川和久氏)(*10)ということになる。現行の憲法解釈の「必要最小限度」論のもとでは不可能であろう。

他方で、集団的自衛権の行使容認は、将来的に日米関係のあり方にもかかわる問題だという視点も、見逃すことはできない。

「集団的自衛権行使」は対等性の模索なのかという問題である。周知のように、日本の安全保障政策の根幹である日米安保体制は「基地と防衛の交換」を基調としている。(…)相手のために「自国の若者の血も流す」と約束した国と、「血を流す代わりに基地を提供します」という国が対等なのかという問題である。(…)

他の同盟諸国と同様に、日本も集団的自衛権を行使できれば、これまでのような関係の不平等性は大幅に解消されると考えられるわけである。そうであるならば、日米関係の不平等性の象徴である地位協定は改定されるべきであり、「思いやり予算」もさらに縮減されるべきであろう。(…)実は、そういったことは米国自体が望んでいないかもしれない。また、今回の閣議決定は限定的行使にとどまるものであり、全面的な集団的自衛権行使とは異なるものである。しかし、集団的自衛権の問題は、本来、日米関係全体の見直しにつながる可能性をもつ問題でもあるのである。

出典:佐道明広「自衛隊史論」吉川弘文館、2015年、219頁

続く

【注釈】

(*1)国家安全保障戦略(2013年12月17日閣議決定)

(*2) 佐々木卓也「アメリカの外交的伝統・理念と同盟ーその歴史的展開と日米同盟」『アメリカにとって同盟とは何か』中央公論新社、2013年、44頁。

(*3)日米安全保障条約

(*4) たとえば、防衛庁・自衛隊「日米防衛協力のための指針」(1997年)で、日本に対する武力攻撃がなされた場合、米軍は「打撃力」の使用を伴うような作戦を担当するとしている。

(*5)自衛隊を活かす会シンポジウム「新安保法制にはまだまだ議論すべき点が残っている」(2015年7月28日)での冨澤暉・元陸上自衛隊幕僚長の発言。

まず、この新安保法制案に対する現時点での私の総合評価を申し上げます。

第1に各種事態対処の法的根拠が本来は異なるんだろうと思うんです。にも関わらず、それを曖昧な集団的自衛権解釈で一括りにしているところが説明を極めて難しくしていると考えています。

2番目に今言った点で不満は残るんですが、私は全体としてよくぞここまで積極的平和主義を具現化してきたものだと高く評価しています。ここは「自衛隊を活かす会」の皆さんと違うところです。これまでの歴代内閣、麻生内閣以前の内閣に比べると、格段の進歩を見せたと私は思っています。これからの後退はありえないと思っております。先ほどお話を頂いた先生方や、ここにおられる多くの方はそうは思っていないかもしれませんが、私はこの安保法制を潰して元の木阿弥になることは何の進歩でもない、後退であると考えています。

3番目は、今後はこれを第一歩として、更に集団安全保障やグレーゾーンにおける武力行使の問題を具体的に解きほぐして、世界の平和に貢献出来るようにして欲しいと考えています。

出典:http://kenpou-jieitai.jp/symposium_20150728.html#tomizawa-hatsugen

なお、民主党政権が設置した「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」の答申(2010年)は「日本は、他の先進国には例を見ない事実上の武器禁輸政策を維持し、憲法解釈上、集団的自衛権は行使できないものとして、その安全保障政策、防衛政策を立案、実施してきた。ただし、こうした政策は、日本自身の選択によって変えることができる」と言及。正式な政府機関である「国会戦略会議」の部会報告書(2012年)も「同盟国アメリカや価値観を共有する諸国との協力を深めるため、集団的自衛権の行使を含めた国際的な安全保障協力手段の拡充を実現すべきである」と提言していた。また、今回の安保法案審議では、「安全保障法制を考える有志の会」(世話人=白石隆・政策研究大学院大学学長)が安全保障の議論を深めるよう要望書を提出している。

(*6) 詳しくは、小川和久「日本人が知らない集団的自衛権」文春新書、2015年、169頁以下「東京新聞の大誤報」(西恭之・静岡県立大学特任助教)参照。

(*7) 平成15(2003)年5月16日、福田康夫内閣官房長官の衆議院安保委員会での答弁。

日本を守るために派遣された公海上にある米艦船、こういう御質問でございますが、この米艦船に対する攻撃が我が国に対する武力攻撃となり得るかどうか。理論的には、我が国に対する組織的、計画的な武力の行使と認定されるかどうかという問題でございます。

(*8) ほかに、折木良一・元統合幕僚長による次の指摘も参照。

集団的自衛権の行使が容認される意義は、自衛隊の国際的な運用が質的・地理的に拡大することのみならず、平時からの共同訓練を含む訓練、防衛力整備などの範囲を広げ、日本としての抑止力を高めることもできるようになる、という点です。

出典:折木良一「国を守る責任 自衛隊元最高幹部が語る」PHP新書、2015年、154頁

(*9) ヴァンデンバーグ決議の第3項。コトバンクー日本大百科全書(ニッポニカ)参照。

(*10) 衆議院安保法制特別委員会(2015年7月1日)での発言。なお、元日本共産党政策委員長だった筆坂秀世氏も同様の見解を述べている。

日米軍事同盟体制を肯定する限りは、集団的自衛権の行使は避けがたいのである。そのことをもっと各党は正直に語るべきである。

もちろん現憲法の下で、その行使に限界があることは当然である。しかし、集団的自衛権の行使を一切否定するということは、日米安保体制を否定するということであり、結局は憲法を改正して、自前の軍隊を持つという方向でしか、日本の主権と独立は守れないということである。

出典:筆坂秀世「日米安保と自衛隊の撲滅は叫ばない安保法案反対派」JB PRESS(2016年6月23日)

弁護士

慶應義塾大学卒業後、産経新聞記者を経て、2008年、弁護士登録。2012年より誤報検証サイトGoHoo運営(2019年解散)。2017年からファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)発起人、事務局長兼理事を約6年務めた。2018年『ファクトチェックとは何か』出版(共著、尾崎行雄記念財団ブックオブイヤー受賞)。2022年、衆議院憲法審査会に参考人として出席。2023年、Yahoo!ニュース個人10周年オーサースピリット賞受賞。現在、ニュースレター「楊井人文のニュースの読み方」配信中。ベリーベスト法律事務所弁護士、日本公共利益研究所主任研究員。

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