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タレントを縛っていた〝ジャニーズ帝国〟の鎖──元忍者・志賀泰伸氏に聞く旧ジャニーズ問題【後編】

松谷創一郎ジャーナリスト
忍者時代の志賀氏(出典:忍者のCDシングル)。

 ジャニーズ事務所の性加害問題が明るみに出て以降、芸能プロダクションとメディア企業との不健全な関係は一般にもかなり知られることとなった。この問題が単なる芸能プロダクションの不祥事ではなく、構造的な問題であることも周知されつつある。

 アイドルグループ・忍者の一員として1990年にデビューし、自身もジャニー喜多川氏による被害を公表している志賀泰伸さんに、ジャニーズ事務所と芸能界について語ってもらった。

ジュニア同士ではタブーだった被害

 1990年の『NHK 紅白歌合戦』に出場するなど、ジャニーズ事務所のタレントとして志賀さんは活躍した。当事者としてその目に映ったジャニーズ事務所の実態とは、どのようなものだったのか。

「タレントを守る姿勢は、常に強く感じていました。ジャニー(喜多川)さんの指示ですべてが仕切られていましたが、細かい裏事情については僕たちタレントはあまり知らされていませんでした」

 ジャニーズ事務所の内部では、タレントの育成から仕事の振り分けまで、すべてがトップダウン──つまり、ジャニー喜多川氏によって決められていたという。志賀さんは当時の状況をこう振り返る。

「たとえば、デビューした後に忍者の全国ツアーと、『PLAYZONE』(演劇)出演の話が同じタイミングで来たことがあったんです。そのときジャニーさんに『どっちを取る?』と聞かれました。僕たちはツアーを選び、『PLAYZONE』にはTOKIOが出演することになりました」

 この証言は、ジャニー氏がタレントのキャリアを強くコントロールしていたことを裏付ける。

「すべての公演に同行するわけではありませんでしたが、重要なイベントにはかならず来ていました。たとえば、僕たちがハワイの宜野湾フェスティバルでコンサートをしたときや、台湾で公演したときにもジャニーさんは来ていました。ステージ裏でびっしり指導されたのをよく覚えています」

 これらの話は、タレントたちが常にトップの目にさらされ、その一挙手一投足が管理されていたことも意味する。そして、この裏で性加害は繰り返されていた。

「僕たちの時代は、被害についてジュニア同士で話すことはタブーでした。だれが被害に遭っているかもわかりませんでした。ただ下の世代では、被害について冗談のように話していたようです。それは、被害を認めたくない気持ちから来ているのかもしれませんが」

ジュリー氏のひととなり

 一方、他の幹部についても志賀さんは話してくれた。

「(藤島)ジュリーさんとは、比較的よく会う機会がありました。忍者の衣装の担当をしていたので、コンサートにもよく同行されていました。メリーさんとの接点は少なかったですが、事務所に行ったときに顔を合わせることはありました」

 ジュリー氏については、こんな印象だという。

「正直、あまり強い印象がないんです。『お嬢様』という感じで、メリーさんの下で働いているという感じ。メリーさんから言われたことに対して、『はい、わかりました』と応じるタイプです。打ち上げなどでも、とくに仕切るようなタイプではありませんでした」

 ジュリー氏についての志賀さんのこうした印象は、彼女と面識のある他の被害者や関係者から聞く内容と共通する。多くのひとが彼女を「お嬢様」と表現し、さらに「常識人」、「ふつうのひと」と評するひとも多い。そのひととなりを悪く言うひとはいないが、志賀さんのように「強い印象が残らない」と話すひとも多い。

 

1990年12月31日、『NHK 紅白歌合戦』に忍者で出場していたときの志賀泰伸氏。
1990年12月31日、『NHK 紅白歌合戦』に忍者で出場していたときの志賀泰伸氏。

テレ朝からの聞き取りはなし

 1994年夏、志賀さんは忍者を脱退し、ジャニーズ事務所も退所する。しかしその後、芸能界の厳しい現実に直面する。

「圧力か忖度かはわかりませんが、なんらかの力は感じました。辞めた後もジャニーズ時代の繋がりで役者としての仕事をある程度させていただきましたが、やはり制限がありました。テレビ局に営業に行っても、『もう来ても無駄だ』と言われたこともありますよ」

 それはジャニーズ事務所の影響力が、タレントが事務所を離れた後も及んでいることを明確に示している。そして当然のようにジャニーズタレントとの共演も不可能だった。

「布川敏和さん(元シブがき隊)とVシネマでいっしょに仕事をしたことがありますが、そのときはふたりとも既にジャニーズを辞めていました。ジャニーズの関係者と食事をすることはあっても、仕事での共演は絶対にありませんでした」

 いまとなっては周知のことだが、この話はジャニーズ事務所が芸能界やテレビ業界に強い影響力を持っていたことを意味する。志賀さんは、この状況がタレントたちを縛り付けていたと指摘する。

「それが、多くのタレントがジャニーズ事務所を辞められなかった理由だったと思います。デビューできないまま年齢を重ねるジュニアも多くいました。でもそうした状況が、ジャニーズ事務所の力を維持する一因だったんでしょうね」

 昨年、志賀さんは自身のテレビ朝日の旧社屋敷地内における被害についても告白した。だが、テレビ朝日の検証番組では志賀さんに聞き取りをせず、当時の局の関係者が亡くなっていることを理由に「事実関係の確認は困難」と結論づけている。

「テレビ朝日からは、1回電話がありました。しかし、そのときたまたま留守で電話を取ることができませんでした。その後の電話はなく、そのまま検証番組は放送されました。本当にやる気あるのかな、と思います」

 そしてテレビ局に対しては、こう提言する。

「テレビ局は加担を認めたくないんでしょうね。しかし、多くのひとが暗黙の了解で動いていた面があると考えています。直接的な圧力ではなくても、僕のようにジャニーズ事務所を離れると他で活躍が難しくなる事実はありましたから」

 ジャニーズに留まれば性加害を受けなければならず、ジャニーズを離れれば今度は芸能界で仕事ができなくなる──この構造に手を貸したのは、テレビ局をはじめとするメディア企業だ。私が「共犯」と何度も指摘するのは、この理由からなる。しかし、彼らはこの構造的問題を明確には認めようとはしない。

葛藤する記憶とSMAPへの思い

 志賀さんは、自身のファンに対しての複雑な思いも話してくれた。

「ジャニーズの歴史の一部として自分が生きた証がある一方で、被害の経験もあります。これらを完全に切り離すことは難しいんです。被害を認めることで、自分のキャリアや応援してくれたファンの存在を否定することにもなりかねません。だからこそ、この問題について語ることは非常に難しいんです」

 その複雑な胸中は、多くの被害者が抱えているものでもあるかもしれない。志賀さん以外のデビューメンバーが被害を告白しないのも、そうした思いが背景にあるのかもしれない。

「一般のひとには理解されにくいかもしれませんが、ジャニーズ時代のすべてが悪い思い出ではないんです。たとえば学校の野球部で同じようなことが起きても、べつに野球が嫌いになるわけではないですよね。被害の経験とジャニーズでの活動はべつなんですが、完全に切り離せるわけでもない。これをうまく言葉で説明するのは難しいですね」

 こうした話のなかで、志賀さんが顔をほころばせてSMAPについて語った印象深いエピソードがある。1990年8月に忍者がメジャーデビューした翌年の9月、SMAPもメジャーデビューを飾った。

「僕は、SMAPとの思い出がけっこうたくさんあるんです。メンバーとは仕事をしたこともよくあります。とくに香取慎吾くんとは地元がいっしょで、まだ小学生だった慎吾くんがジャニーズに入ったとき、当時金物屋をやっていた僕の実家を訪ねてきてくれたんですよ。なぜか『記念に領収書ください』って言って、それを持って帰ったそうです(笑)。本人は覚えてないだろうけど。その後も仕事のときはよくいっしょにタクシーで帰っていましたね」

 それもあって、SMAPの解散には複雑な思いもあるという。

「あの騒動は、ファンが2対3に分かれて対立していましたよね。ファンが分裂して、双方のメンバーの悪口を言い合っているのを見ると残念に感じます。いままで応援していたのに、なぜ裏切り者扱いするのか。活躍しているのだから、いっしょになって応援すればいいのにと思います」

2024年9月、志賀泰伸氏(筆者撮影)。
2024年9月、志賀泰伸氏(筆者撮影)。

〝ジャニーズ帝国〟の実相

 志賀さんは、SMILE-UP.の東山紀之社長についても語ってくれた。

「東山さんはタレントとしてキャリアを積んできた人なので、経営の裏側のことはよくわからないと思います。にもかかわらず、矢面に立たされている状況は気の毒だとも感じています。しかし、最高責任者としてもっと正直に対応し、わからないことはわからないと言いながら、誠実に対応していく姿勢が必要だと思います」

 そして、SMILE-UP.に欠けている姿勢についての見解も示した。

「やはり、事務所の歴史や裏事情を知るひとびと──たとえば白波瀬傑元副社長などが表に出てきて、責任ある説明をすることが重要だと思います。そして、被害者への誠実な対応や、透明性のある情報公開が必要です」

 さらに、より構造的な問題にも目を向ける。

「僕は、〝ジャニーズ帝国〟がどのように形成されてきたか、その仕組みを明らかにしてほしいです。たとえば、メディアをどのように抑え込んできたか、スキャンダルをどう封じてきたかなどです。また、被害者の数や状況、そして加害行為がどのように進行していったかという経緯も含まれます。もちろん、個人名を出す必要はないと考えています」

 最後に、自身の今後の活動についての思いを語った。

「この問題の重大性をより多くのひとに理解してもらいたいです。メディアの沈黙があった中で、より開かれた議論が必要です。単に過去の清算だけでなく、性犯罪の時効撤廃など世界基準の人権意識に変えていくために、もうちょっと闘っていきます」

 10月2日、SMILE-UP.はファンクラブ運営会社・FAMILY CLUBの独立を発表した。「幕引き」に向かって着々と進んでいるように見えるが、現時点で株主構成や経営陣の編成は確認できない。だが、そうしたことを大手メディアが無検証に報じることで、ひとつひとつ「幕引き」に向けた実績も作られていく。

 「早く終わらせたい」──テレビ局やスポーツ新聞などのそうした本音の陰で、被害者たちが苦しんでいる。

【了】

ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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