吉本興業を板挟みにする松本人志と人権尊重──「ビフォーの常識」が通用しないジャニーズ問題後の日本社会
揃わなかった松本氏と吉本興業の足並み
文藝春秋社の性加害報道に対するダウンタウン・松本人志氏の民事訴訟は、原告・松本氏の取り下げというかたちで終結を迎えた。その理由は、裁判の継続による活動休止の長期化と、敗訴の可能性によるダメージの回避と推察される。
今後注目されるのは、松本氏のマネジメントを担う吉本興業のスタンスだ。周知の通り、両者は40年以上のビジネスパートナーだ。マネジメントだけでなく、吉本興業は『M-1グランプリ』や『HITOSHI MATSUMOTO presents ドキュメンタル』などの番組製作、『大日本人』をはじめとする映画製作などで、松本氏と強固な関係を築き上げてきた。
このとき大前提として押さえておかなければならないのは、本件における吉本興業は問題の当事者ではなく、あくまでも当事者と契約を結ぶ芸能プロダクションであることだ。つまり、松本氏は取引先のひとつだ。この点は、社長が未成年タレントに対する膨大な性加害を行い、それを幹部や社員が放置してきた旧ジャニーズ事務所の性加害問題とは決定的に異なる。
そうした吉本興業と松本氏は、今回の疑惑において決して足並みを揃えてきたとは言えない。その関係には、少なからずギャップが生じている。それは両者がこれまで示した言動から読み取れるものでもある。
吉本が見せた強気の初期対応
『週刊文春』が松本氏の性加害問題を報じたのは、昨年12月27日のことだった。『M-1グランプリ2023』(テレビ朝日系列)放送の3日後のことだ。
このとき吉本興業は即時の対応を見せた。同日中に『文春』記事に対し、非常に厳しい姿勢を明らかにした。
それは、その後の松本氏の姿勢にも沿う態度だった。とくに「当該事実は一切ない」と言明したことは注目された。しかし、吉本興業のこうした強硬な態度は、年が明けた以降、トーンダウンしていく。
フジが"NO"『ワイドナショー』出演
「事実無根なので闘いまーす。それも含めワイドナショー出まーす。」
2024年1月8日、松本氏はXでそう宣言した。同時に活動休止も正式に発表された。その理由は、「裁判に注力したい」からだった(吉本興業「松本人志の今後の活動に関するお知らせ」2024年1月8日)。
それは、松本氏がMCを務めるフジテレビ系列の情報番組『ワイドナショー』が、新年はじめての放送を6日後に控えていたときでもあった。
しかし結果的に松本氏は、『ワイドナショー』に出演できなかった。フジテレビは吉本興業と協議したうえで「総合的に判断して出演しないものとなった」と説明した(朝日新聞2024年1月10日)。
短期間におけるこの二転三転は、松本氏の言動を周囲が簡単に許容しなかったことを示している。このとき、もし松本氏が出演して一方的に主張を展開するようなことがあれば、フジテレビにとってはBPO案件になるようなリスクもありえた。そしてまた、タレントの一存によって番組が左右されてしまうことは、この番組に吉本が制作協力をしているとは言え、編集権の侵害にもなる。
過去にフジテレビは、SMAPの解散騒動の際に『SMAP×SMAP』でジャニーズ事務所の意向に従って「公開処刑」とも呼ばれたメンバーの謝罪を放送したことがあった。番組への強い介入は、このケースと似たような波紋を広げる可能性があった。それをフジテレビは回避したのである。
吉本興業のトーンダウン
それからまもない1月22日、松本氏は『週刊文春』の発行元である文藝春秋社と、同誌の編集長を相手に、5億5千万円の損害賠償を求める名誉毀損の民事訴訟を提起する。ここで重要なのは、先月「法的措置を検討していく」としていた吉本興業が原告に加わらなかったことだ。この時点で、同社の姿勢には明確な変化が見られた。
それがはっきりと確認できるのは、その2日後だ。吉本興業は、新たな声明で松本氏の報道について会社としての姿勢を改めることを発表する。そこでは、先月末の強気の姿勢がかなりトーンダウンしている。
「事実確認を進める」と明言したその内容は、「当該事実は一切ない」とした先月の前言を実質的に撤回する内容だった。民事訴訟に加わらなかったのも、こうした会社の姿勢の反映であると考えられる。
以上の変遷を踏まえれば、この短期間で松本氏と吉本興業の関係性は変質したと見られる。
ジャニーズ問題後の新しい秩序
吉本興業のこうした姿勢の変化には、同社が手掛ける幅広い業務や、昨今の芸能プロダクションへの厳しい視線が背景にある。
国内マーケットが頭打ちでインターネットによってテレビなどレガシーメディアも再編に向かうなか、芸能プロダクションは従来業務の転換を迫られている。旧ジャニーズ事務所のようにそうした変化にまったく対応できなかった会社もあるが、吉本興業はこの変化にもっとも自覚的かつ積極的な対応を見せている企業のひとつだ。
渡辺直美やとにかく明るい安村、ゆりやんレトリィバァなど、所属タレントの海外進出に積極的で、最近も海外展開を目的として三菱商事と業務提携を結んだばかりだ(三菱商事2024年11月6日)。
そしてなにより、来年4月からは本拠地で大阪・関西万博が開催される。行政も強く関与したこのイベントで、ダウンタウンはアンバサダーを務め、吉本興業もパビリオンを出展し、前会長の大﨑洋氏が催事検討会議の共同座長を務めるなど、その関係は深い。こうしたグローバルビジネスや公的事業では、当然より厳格なコンプライアンスが求められる。
さらに大きな背景として、昨年から今年にかけて問題となった旧ジャニーズ事務所の性加害問題がある。同社が性加害を認めて以降、スポンサー企業や一部のテレビ局などのステークホルダーは、国連の「ビジネスと人権の指導方針」に基づき厳しい姿勢を示した。
これにより芸能界に対する日本社会の姿勢は大きく変化し、テレビ局も(その内容は十分とは言えないが)人権方針を策定・改定するにいたっている。実際に日本テレビは、フワちゃんのSNS投稿問題への対応において、人権方針に基づく判断であることを明言している(デイリースポーツ2024年8月11日)。
つまり、ジャニーズ問題以降、芸能界やテレビ局におけるコンプライアンスはより厳格になった。そして当然松本氏の問題も、ビフォーではなく現在の問題として捉えられる。
事実確認と研修、変化した吉本の姿勢
吉本興業も、こうした「ジャニーズ問題以後」の時代に対応する姿勢を明確に示した。4月に公表したガバナンス強化では、国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」を踏まえた人権ポリシーを策定した。松本氏の件についても、その向き合い方を改めて示している。
こうした文章からは、吉本興業が松本氏の問題をけっして軽く捉えていないことが伝わってくる。前述したように、民事訴訟の原告にならなかったこともそれを裏付ける。さらに、7月に松本氏は『情報ライブ ミヤネ屋』の報道に対し読売テレビに抗議の申し入れをしたが、これにも吉本興業は関与していない。
しかし同時に、吉本興業は松本氏に対する態度を明確にしたわけでもない。そこには1月と同様に「事実確認等を進める」との文言があり、この時点では調査はまだ進行形だ。その後も、この調査結果を受けた松本氏に対する明確な姿勢を吉本興業は示していない。
活動再開への含みを残した吉本
そして今回、松本氏の訴訟取り下げと部分的な謝罪を含むコメントを吉本興業は公開し、そこではわずかだが今後についての同社の姿勢が書き記されていた。
現状、吉本興業の松本人志氏に対する姿勢は、非常に短いこの一文以上のことはわからない。しかし、それは活動再開を前提としたような文章にも捉えられる。それまでの厳しくも見えた姿勢とは、大きく異なっているようにも感じられる。
板挟み状態の吉本興業
ここまで、この10か月にわたる吉本興業と松本氏の関係性を確認してきた。以上を踏まえ、現在の状況と今後について考えていこう。
まず筆者の取材で見えてきているのは、現在の吉本興業には松本氏に強く進言できる存在がいないことだ。岡本昭彦社長と藤原寛副社長は過去にダウンタウンのマネージャーを務め、その恩恵によって現在のポジションにいることや、松本氏よりも年下であることもあって進言しにくい立場だという。実際、現在61歳の松本氏よりも年配の社員が限られるのは当然だ。
2023年12月の即座の対応(「当該事実は一切ない」)も松本氏と近いこうした幹部の勇み足だったと見られる。しかしそれをガバナンス委員会から問題視され、さらに旧ジャニーズ問題の渦中だった社会情勢も相まって、翌月には態度を翻すにいたった。
以上を踏まえれば、吉本興業は長年の功労者である松本人志氏と、人権尊重をやっと重視するようになった日本社会のあいだで、板挟み状態にあると推察される。つまり、コンプライアンスは徹底しなければならないが、松本氏もないがしろにはできない──吉本興業は難しい立場に置かれている。
スポンサーの厳しい目、続く逆風
今後の展開は、テレビ局、スポンサー企業、万博関係者、行政など松本氏と吉本興業のステークホルダーの判断に左右されるだろう。そしてなにより芸能事業において重要なのは、ファンや視聴者の反応だ。
しかし、日本社会と芸能界との関係は、昨年の旧ジャニーズ事務所の性加害問題で一変しており、「ビフォーの常識」は通用しない。
そして、そもそも訴訟取り下げは問題の解決を意味しない。被害を告発した女性は主張を維持しており(朝日新聞「記事の女性『割り切れない思いはある』 松本人志さん訴え取り下げ」2024年11月8日)、松本氏の性加害疑惑は解消されていない。
昨年12月には複数企業が松本氏の特番へのスポンサー表示を取りやめているが、状況はその当時に戻ったとも言える。あるいは、訴訟取り下げに敗訴リスクの回避があったと想定し、その疑惑が訴訟前よりも強まったと捉える向きもある。
こうした状況を踏まえれば、スポーツ新聞や松本氏を支持するタレント、そして熱心なファンが期待するような活動再開が決して簡単ではないことも見えてくる。つまり、松本氏はかなり厳しい立場に置かれており、板挟みにある吉本興業も難しい判断を迫られていると考えられる。
筆者は、松本氏は自主的な「退所・独立」の道を選択をするのではないかと予想する。本人の活動再開が簡単に実現せず、吉本興業の調査結果しだいでは「契約解除」の可能性も依然として残されていることを踏まえれば、本人の体面を保つために自主的に吉本興業を離れ、『M-1』や『ドキュメンタル』などでは、制作会社と一タレントとしての関係を継続することで両者のダメージを軽減する策だ。
もちろん、こうした策は根本的な問題解決にはならない。松本氏が本当に疑惑を解消したいのであれば、やはり会見等で報道陣を前にしっかりと説明責任を果たすことが必要だろう。みずからの口で(女性への二次被害に注意しながら)疑惑を晴らすことができれば、問題は解決に進むはずだ。
そして吉本興業も、この問題に対する明確な態度表明が求められる。芸能界を取り巻く環境が大きく変化するなか、同社の判断が注目される。
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