米国の保守は「公平」より「自由」を求め、日本の保守は「自由」より「公平」を強化する社会主義
フーテン老人世直し録(697)
弥生某日
立憲民主党の小西洋之議員が総務省から入手した行政文書を、高市早苗経済安全保障担当大臣が「捏造」と発言したことから、「政治的公平」の議論が本質を外れ、妙な方向に向っている。
問題の発端は2015年、安倍政権が集団的自衛権を認める「平和安全法制」を成立させる前に、磯崎陽介総理補佐官を介し総務省の「政治的公平」を巡る解釈を変えさせようとしたことにある。
その経過を記した行政文書を当時総務大臣だった高市氏は「捏造」と主張した。行政文書には官僚から大臣レクがあったと記されているが、「自分はレクを受けていない」と国会で否定したのである。
これに対し総務省は「上司の関与を経て、このような行政文書が残されているのであれば、レクが行われた可能性は高い」と答弁し、高市氏の主張は否定されたかに見えたが、「上司の関与を経て」という部分が、書き換えの可能性をにおわせているとの指摘もあり、問題の焦点が「レクはあったのか、なかったのか」に矮小化されている。
しかし現実に起きたことは、「平和安全法制」が国会に提出される半年前、磯崎補佐官が総務省に「政治的公平」の解釈を放送事業者の番組全体ではなく、一つの番組でも判断できるよう「問い合わせ」をしたことだ。本人が認めているのでこれは事実である。
その結果、安倍政権が「平和安全法案」を国会に提出する2日前、当時の高市総務大臣は国会で「一つの番組でも判断できる」と答弁した。これも事実である。つまり国論を二分する法案審議が始まる時、放送法の解釈の変更が行われ、それは放送番組に制約を課すものだった。これは高市氏も磯崎氏も総務省も否定できない事実ではないか。
だとすれば国会はそのことの是非を真剣に議論すべきである。これは民主主義の根幹にかかわる話だから、時間をかけてでもやるべき課題だ。しかし現状を見ると野党の追及は高市氏を辞任させるのが目的で、それだけで終わるように思えて仕方がない。
米国では放送における「公平の原則」を巡り、それが導入された1949年から長年にわたり議論が続いてきた。反対派の論拠は憲法修正第一条の「言論の自由」を侵害するというもので、放送に対する規制は最小限にとどめるべきだと言う。保守を標榜する共和党はその考えを支持している。
これに対し賛成派は、リベラル系の消費者団体や公民権運動団体、報道機関、大企業などで、こちらはリベラル派が多いが、一部保守派も混在している。共通するのは自分たちが「少数派」になり得ると考え、「公平の原則」によって保護され、反論の機会が与えられることを望む人たちだ。
その議論が画期的な展開を迎えたのは、1979年3月に起きたスリーマイル島原発事故である。それまで「公平の原則」によってテレビ局は、原発を巡る賛否は必ず両方の意見を紹介してきたが、原発事故が起きた地域のローカル局が原発反対だけを放送した。
これがFCC(連邦通信委員会)の定めた「公平の原則」に反するとして問題になった。FCCは当然その放送局を「公平の原則」違反に当たると判断したが、これに異を唱えたのが女性の民間団体「女性有権者連盟」である。
そもそも「公平の原則」は、希少な電波を特権的に割り当てられた放送事業者に勝手なことをさせないために必要とされた。しかしケーブルテレビが普及し多チャンネル時代を迎えた現在ではそれは意味をなさない。むしろ「公平の原則」を課すことは言論の自由を侵害すると「女性有権者連盟」は訴訟を起こした。
1981年に規制緩和と小さな政府を目指すレーガン政権が誕生し、共和党が上院の過半数を占めると、レーガン大統領はFCCの委員長にマーク・ファウラー弁護士を起用した。ファウラー氏は通信・放送業界の規制緩和に意欲を示す弁護士だった。
「女性有権者連盟」の訴訟は、1984年に米連邦最高裁で「公平の原則が言論を委縮させる例が示されるなら、かつて公平の原則を合憲としていた判決を再検討する」という判決になった。これによって1987年にFCCは「公平の原則」を撤廃した。
これに対し民主党やリベラル系団体は「公平の原則」を復活させようと何度も試みるが、いずれも共和党の反対によって不成功に終わる。なぜ民主党が反対するかと言えば、「公平の原則」が撤廃されたことで保守系メディアが増え、それが国民の人気を集める現象が起きたからである。
ともかく米国では保守が「公平の原則」を撤廃させて言論の自由を主張するのに対し、日本では保守が「政治的公平」の規制を強化し、言論を委縮させようとしている。この真逆の構図はどこから生まれるのか。それを解くカギは、20年ほど前に大ベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)にある。
『バカの壁』を書いた養老猛司東京大学名誉教授によれば、人間が新聞やテレビでニュースを見たからと言って客観的事実を知る訳ではない。客観的事実を知ることができるのは「神」のみで、人間は知ったつもりになっているに過ぎない。
ところが知ったつもりだけなのにそれを事実だと思い込むバカがいる。そして人間は知りたくないことには耳を貸さない。こういう人間には何を言っても話は通じない。それを養老氏は「バカの壁」と言った。そして「バカの壁」の典型はNHKだと言う。
NHKの報道は「公平・客観・中立」がモットーだと堂々と唱える。そんなことを言えるのは「神」しかいない。「神」でもないNHKがそれを平然と言っているのは怖ろしいことである。なぜならHNKの報道を客観的事実だと信じ込ませ、視聴者をバカにさせるからだ。
米国の保守が「公平の原則」を撤廃した1987年ころ、日本では中曽根政権がNHKを強化して国民を「バカの壁」に閉じ込める策動を開始した。米国が打ち上げないBS(放送衛星)を買ってきてNHに打ち上げさせたのだ。そこからみるみるうちにNHKの肥大化が始まった。
それまで日本の放送界はNHKと民放の二元体制だった。NHKは受信料制度に支えられているので視聴率を重視する必要はなく、公共のための地道な放送を行うことが使命とされていた。
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