バーベキューの日本史、その前史(2)
第二次大戦後の1950年代、紅花創業者の青木湯之助、建築専門誌、女性料理研究家という、それぞれ違う方向から日本社会に持ち込まれた「バーベキュー」という食文化。そして時代を下るにつれて、「バーベキュー」という単語が持つ意味は変化していく。
変化すること自体は悪いこととは限らない。鮨だって海外に伝わったことでカリフォルニアロールのような新たな地平が開けたし、アンパンは木村屋總本店が「日本人にも受け入れられるように」と酒種酵母を使った生地を作り上げた(もっとも、持ち前の甘さと柔らかさがフランス人には「パンとして」は受け入れられなかったりもするが……)。
上記は、文化が地域に合わせてカスタマイズされた例だが、後に世に広く受け入れられたり、使われるようになる呼称は、正確な理解が広まる前になんとなくイメージで捉えられて広まるケースが少なくない。
日本における「バーベキュー」はまさしくその典型例だった。
日本に「バーベキュー」が曲がって伝わった理由
例えば、1960年の『コリア評論』(民族問題研究所)内に焼肉店の広告が掲載されているが、「新橋苑」の業態は「焼肉・バーベキュー」となっている。
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