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トルーマンがオフレコ・スピーチの原稿に記した人類史上最恐の“ヤバい決断” 終戦から79年

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
ポツダムで人類史上最も恐ろしい決断を下したというハリー・トルーマン(前列中央)。(写真:Shutterstock/アフロ)

 終戦から79年。

 広島と長崎に原爆投下を命じた米・元大統領ハリー・トルーマンは、原爆投下という決断についてどう考えていたのだろうか? それは、1945年12月16日、新聞社の支局長や出版者、編集者の団体「グリディロン・クラブ」が主催する年次晩餐会でトルーマンがしたスピーチの中に表れていたのかもしれない。

 この晩餐会には「記者は絶対に同席させない」というルールがあったため、この晩餐会でトルーマンがしたスピーチは公表されなかった。しかし、トルーマンは15 ページにわたる手書き原稿を用意しており、それがスピーチのベースになった可能性があるとされている。この原稿の12〜15ページ目に原爆投下について言及しているくだりがある。

トルーマンの手書き原稿の中身

 以下が、そのくだりだ。

「ご存知のように、人間が下した最も恐ろしい決断は、ポツダムで私が下した決断です。その決断は、ロシアやイギリスやドイツとはまったく関係のないことでした。それは、人類を大量に殺戮するために、あらゆる破壊力の中で最も恐ろしい力を放つという決断でした。陸軍長官のスティムソン氏と私は、その決断を祈りを込めて検討しました。しかし、大統領が決断しなければなりませんでした。私たちの若い25万人の命は、日本の都市2つ分に値すると私は思いましたし、今でもそう思っています。しかし、女性や子供、非戦闘員を抹殺する必要があるのかについては考えずにはいられませんでした。私たちは彼らに十分な警告を与え、撤退を要請しました。私たちは、戦争が主要産業である都市をいくつか選び、爆弾を投下しました。ロシアは急いで侵攻し、戦争は終わりました」

 トルーマンは、手書き原稿の中で、原爆投下という自身が下した決断が人間が下した最も恐ろしい決断であると認め、米兵25万人の命を救うためには、日本の2つの都市に原爆を投下する必要があったと述べているわけである。

トルーマンの手書き原稿の12ページ目には「人間が下した最も恐ろしい決断」について記されている。出典:nsarchive.gwu.edu/
トルーマンの手書き原稿の12ページ目には「人間が下した最も恐ろしい決断」について記されている。出典:nsarchive.gwu.edu/

原爆投下により救われた米兵の数を膨らませた

 もっとも、この手書き原稿を紹介している「ナショナル・セキュリティー・アーカイブ」は、トルーマンが言及した25万人という米兵の数は誇張されているとしている。

「トルーマンはポツダム宣言を“公正な警告”と評したが、それは最後通牒だった。彼は爆撃によって引き起こされた荒廃と苦しみに悩まされていたが、米兵の命を救ったので正当化できると考えた。彼は25万人の米兵の命が(原爆投下により)犠牲にならずに救われたと推定しているが、この数は1945年6月にマーシャル将軍が推定した31,000人(ルソン島の戦いに匹敵)という数をはるかに上回っていた。大統領は、犠牲になる米兵の数を膨らませて言うことで、今後数十年間にわたって、爆撃に関して公式および準公式に行われる議論に対し、(原爆投下の)理由づけをしようとしていたのだ」

 トルーマンが、戦後、原爆投下によって起きる議論に対処するために、原爆投下により救われた米兵の数を大きく言うことで、原爆投下の正当性を貫こうとしていたことが窺える。

眠れなくなることは全然なかった

 原爆投下という「人類史上、最も恐ろしい決断を下した」というトルーマンだが、彼は原爆を投下したことを後悔していたのだろうか? 2020年に「始まりか終わりか:ハリウッドとアメリカはいかにして心配するのをやめ、核兵器を愛するようになったか」という著書を出版した、ノンフィクション作家のグレッグ・ミッチェル氏がNewsweekにした寄稿の中で、その答えは“否”だと述べている。

 確かに、ミッチェル氏の寄稿の中で紹介されているトルーマンの発言を見る限り、彼が原爆投下を後悔しているとは思えない。

 例えば、トルーマンは、原爆投下後、乗船していた船の船員たちに対し、「実験は大成功だった」「これは史上最大の出来事だ」と述べている。

 また、あるインタビューで、トルーマンは日本兵を凶暴な戦士と呼び、「爆弾で都市全部を消滅させた方がいいと考えた」と述べ、1959年には「私は自分が下した決断のために眠れなくなることは全然なかった」と明言。さらに、トルーマンは、広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長ポール・ティベッツに対しても「君が原爆投下の任務を遂行したことで眠れなくなることは決してないだろう。それは、私が下した決断だからだ。君に選択の余地はなかったのだ」と述べたという。それだけトルーマンは、原爆を投下するという自身が下した決断の正しさに自信を持ち、また後悔の念にも襲われなかったから、眠れなくなることなどなかったのだろう。

 原爆について「何の良心の呵責も感じない」と言ったトルーマンに広島市議会が抗議の手紙を送った時も、彼は戦争を始めたのは日本であり、その代償として広島と長崎は犠牲を払わなければならなかったと非難、広島市議会が主に女性や子供20万人を虐殺したことが人道的な行為だったと本当に信じているのかと尋ねると、トルーマンはそれに答えなかったという。

 また、トルーマンの元には、原爆投下という決断を賞賛する手紙や批判する手紙が届いたが、彼はそのファイルに「ジャップ爆弾事件」という名前をつけて保管していたようだ。

 後悔の念が感じられないトルーマンだが、日本が降伏する前、なぜ3つ目の原爆投下を延期したのかと尋ねられた時はこう答えたという。「さらに10万人を殺し、子供たちを殺すという考えはあまりにも恐ろしかった」。

 原爆投下がトルーマンの中に植えつけたもの。それは、大量殺戮することに対する恐怖心だったのかもしれない。

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在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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