“サブカル”的に描かれた「僕の物語」──元少年A『絶歌』が刺激した日本の“空気”【中】
動機が見えにくい凶悪事件──それが相対的に浮上してきたのは90年代以降のことだったろうか。犯人の背景には「貧病争」が見えないものの、突然生じてしまう事件だ。その代表的なものが1997年の少年Aによる「酒鬼薔薇事件」かもしれない。そして現在も類似する事件が目立っている。
2015年、少年Aは手記『絶歌』を発表して大きな論争に発展した。その際にかの本を取り巻く日本社会の状況を描いた記事を再掲する。
初出:『論座』(朝日新聞社)2015年7月2日/一部加筆・修正
【「『限定的な想像力』に包まれる日本社会──元少年A『絶歌』が刺激した日本の“空気”【上】」から続く】
自己の物語化
「名前を失くした日」と題された『絶歌』冒頭の節には、この印象的な一文がある。上手いこと書くな――と、一瞬思う。こうした存在感の薄い少年は、全国のどこの中学校にもいるだろう。そうした存在を表現するのには、見事な表現なのかもしれない。
しかし、同時に奇妙な感覚にも襲われる。そこに「スクールカースト」「カオナシ」というふたつの単語が登場するからだ。
「スクールカースト」は、2000年代中期頃から見られるようになった、学校内の階層を意味するネットスラングである。一方「カオナシ」は、2001年に公開された宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』に登場する、言葉を上手く発せない化け物だ。
ともにAが事件を起こした1997年には、世に存在しなかった表現である。つまりこの一文が意味するのは、(当然のことではあるが)事件を起こすまでを描いた前半部は、現在のAによる解釈がふんだんに盛り込まれた回想であるということだ。同じ人物とは言え、当時「透明な存在」と名乗った少年Aを、18年後に元少年Aが遠目に見て「カオナシ」と呼んでいるのである。
その解釈とは、「物語化」と言い換えることもできる。14歳までの自分がどのように育ち、その結果なぜあのような陰惨な事件を起こしてしまったのか――それを物語化しているのである。
『絶歌』が批判された理由のひとつには、この自己物語化における描写にあった。
自らが起こした事件の具体的な描写はもとより、過剰な修辞があふれる下手くそな文学青年もどきの文体は、きわめて自己陶酔的かつ自己顕示的に感じられる。まるで他人ごとのように過去の自分を語っているからだ。
“サブカル”断片による「僕の歴史」
こうしたAの自己物語化では、さまざまな文学やマンガ、映画、歌詞などが引かれている。
ざっと書き出すと、ドストエフスキー『罪と罰』、太宰治『人間失格』、村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』、村上春樹『海辺のカフカ』『トニー滝谷』『1Q84』、大藪春彦『野獣死すべし』、三島由紀夫『金閣寺』、古谷実『ヒミズ』『ヒメアノ~ル』、映画『スタンド・バイ・ミー』、松任谷由実「砂の惑星」、フロイトの精神分析などである。
『絶歌』では、これらの作品群によってAの心象が解説される。つまり、小説やマンガなどのさまざまな物語のパッチワークによって、自己物語は構成される。思春期を引きずった青年のブログで見るかのようなそのチープさは、極めて(4文字の)“サブカル”的と呼べるものだろう。
それは、単に文学やマンガなどを引用しているからではない。それらの作品のピックアップが、各表現ジャンルの文脈を無視した上で恣意的になされているからこそ“サブカル”的なのである。
そこでは各ジャンルの研究や批評はまるで無視され、単に自分が好きだったり共感したりした作品を自分に適用してパッチワークしているにすぎない。「僕の歴史(自己物語)」のために断片を借りてきているだけである。
それは一般的なファン(消費者)としては、決して珍しくない姿だ。結婚式でカップルが思い出のJポップをかけるように、あるいは、中年男性が部屋にさまざまなキャラクターのフィギュアを並べるように。批評や研究などは、そうしたひとびとの前ではまったくの無用の長物だ。そのカジュアルさこそが、“サブカル”の良さでもある。
ただし、Aの場合はあの重大な事件を起こした自分に適用している。ゆえに、そのチープさは単なる思春期青年ブロガーの痛さなどにはとどまらず、ひどい残酷さを放つ。
その軽薄さ、残酷さを批判することはもちろん必要なことだが、同時にこのとき注意を向けるべきは、なぜ彼はこのような物語化しかできなかったのか、ということでもあるだろう。
1997年、かの事件はしばしば「心の闇」というキーワードで語られた。それがなにかを説明していたようで結局なにも説明していなかったことは、その語義はもとよりその後の展開を考えてもわかる。
結局、聞こえの良いコピーを使ってマスコミは事件を物語化していたのである。Aがみずからの心象を“サブカル”的に語るのは、まるであのときのマスコミの“サブカル”話法にそのまま追従しているかのようである。
“サブカル”読解の危うさ
『千と千尋の神隠し』のカオナシは、言葉を話せない。「あ……」となにかを言いたそうに声を発することしかできない。しかし、そんなカオナシでも言葉を出す方法がある。他者を飲み込んでその声を借りて話すのである。それはまるで、他人の作品を使って“サブカル”的に物語を紡ぐAのようである。
「透明な存在」だったあのときの少年Aは、カオナシだった――という彼の自己物語は、ここで退けられる。“サブカル”的なパッチワークで編んだ『絶歌』を出版したゆえに、現在の元少年Aこそがカオナシなのである――という、分析もまた“サブカル”的隘路でしかない。それは重大事件の娯楽的消費であっても、ソリューションにはほど遠い。
結果的に、『絶歌』がわれわれに強く伝えてきたこととは、同書の版元である太田出版の雑誌『クイック・ジャパン』で見られるような90年代的“サブカル”読解を同書に適用することの危うさである。
こうしたことを踏まえて言えることは、とてもシンプルだ。
Aは「透明な存在」どころかカオナシですらない。彼は、思春期に重大事件を起こしてしまい、少年法によって更生し、社会復帰して過去をひどく悔やみながら悲惨な人生を送る30代の男性でしかない。同書が示したのは、重大な少年事件の18年後であり、必要なのはそれに正面から向き合い未来を講ずることである。
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