パラリンピック東京開催に向けて―障害者スポーツと体罰について考える
東京五輪招致が決定し、オリンピックと同時にパラリンピックの開催が決まったわけですが、パラリンピックや障害者スポーツについての情報や課題はいまだあまり聞こえてきません。少しでもその状況を知って理解を深めることで、心の準備をしたり思考や行動のきっかけになるのではないかと考えます。そこで今回は障害者スポーツの指導において議論になることの多い現場での体罰などについて考えてみたいと思い、現場での指導にも携わる北海道教育大学特任講師大山祐太さんにお話を伺いました。
◆どこからが体罰なのか
「体罰や虐待については、定義が機械的には決められず、個別事例で該当するかそうでないかを判断することにまず難しさがあると思います。」という大山さん。平成23年に制定された障害者虐待防止法では、類型としては身体的虐待、ネグレクト、心理的虐待、性的虐待、経済的虐待の5つが挙げられていますが、身体的・心理的虐待については実際に生じた例が虐待にあたるかという判断は非常に難しいといいます。
これは障害者スポーツに限ったことではありません。組織内でのセクハラやパワハラもそうですが、価値観が違う以上その境界の認識には差があります。相手との関係によっても変わりますし、性格によっては嫌なのに笑って受け流すという選択をする人もいます。うまく気持ちを伝えられない障害を持っていれば、なおさら判断が難しいことは想像できます。
◆「障害者」であることによる周囲の過剰反応
また、対障害者となると、神経を過剰につかいすぎるという風潮もあり、仲間同士ふざけあってポンと叩くことも、それが対障害者となると、当事者同士に信頼関係・友人関係ができていても「体罰」とみなされることがあるとのことで、アメリカで開催された知的障害者のスポーツの大会では、指導のためストックでスキーブーツをコンコンと叩いたコーチが「口頭や自分の手で示すことができる。ストックで叩く必要性はない」という理由で大会サイドから退場を命じられたという事例もあるようです。
大山さんは、“障害がある”とすぐに“保護すべき存在(対等な存在ではない)”となってしまことが問題だと指摘します。「もちろん、最低限の必要なサポートはあってしかるべきですが、障害者に対して“憐れな、守るべき人”というイメージがついてしまうと、スポーツの指導が非常にやりにくくなってしまう危険性があります。身体接触が避けられないスポーツであればなおさらです。」
以前取材させて戴いたゴールボールの指導者の方は「道具の準備だとか、掃除もやってもらわないとダメ。サボれば怒るし、そういう所は健常者と同じでスポーツマンシップの一環。」と話されていました。関わる人数の少ない閉じた空間では、リーダーシップを取る人の価値観で場が醸成されているようです。
◆閉ざされた空間で関係を築く難しさ
青年スポーツ組織・非営利組織、特に障害者スポーツにおいては慢性的に指導者不足のため、時間的・経済的負担が大きいボランティアコーチに頼っているという現状です。また、スポーツ指導者は自身がプレーヤーである場合が多く、経験に拠る指導をする際に、特に知的障害や自閉など見た目ではわからない障害について、その特性などが考慮されない危険性があります。
指導する支援員や保護者の疲弊も虐待の要因の1つと考えられます。「自分がこれだけ熱心にやっているのになぜ……」というフラストレーションや怒りなどの感情が虐待に結びついてしまうことは想像に難くない、と大山さんはいいます。
関わるすべての人が、多様な障害について認識することはもちろん、その周囲の直接関わらない人も、障害について、また障害者と関わる人達について理解を深めることで、虐待を減らすことも出来るのではないでしょうか。まずは、知ること、知らせることで障害者スポーツを巡る環境を変えることで、2020年のパラリンピックを良いものに出来るのではないかと思います。(矢萩邦彦/studio AFTERMODE)
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