「新しい風を吹かせ続けたい」 博多ラーメンに革命を起こした男
親父の作った店ではなく自分の店で勝負したい
JR有楽町駅と新橋駅の間の高架下に、2020年にオープンしたグルメスポット『日比谷グルメゾン』(東京都千代田区内幸町1-7)。その中に人気ラーメン店が集う『RAMEN AVENUE』がある。ニューヨークの街角をイメージした雰囲気の中で楽しめるのは、全国の人気ラーメン店3軒。その博多代表として東京に初進出したのが『博多新風』(本店:福岡県福岡市南区高宮1-4-13)だ。
店主の高田直樹さんは、昭和43年に福岡県春日市で創業した『一龍』の三男として産まれた。小さい時から毎日のように父親の作るラーメンを食べて育った高田さんは、調理師学校を卒業した後に父親の店に入り、二代目として十年間、親の店の厨房に毎日立ち、店の味を守り続けた。
「おかげさまで『一龍』は忙しいお店だったのですが、そこは親父が作った店であって自分は何もしていない。僕も自分の力で何かしないとといけないと思い、店は弟に任せることにして独立を決意しました」(博多新風 店主 高田直樹さん)。
他の人と同じラーメンでは勝つことは出来ない
福岡は言わずと知れた豚骨ラーメンの街。石を投げれば豚骨ラーメン店に当たるようなライバルの多い場所だ。しかも戦後から地元で愛されている老舗から、全国に店舗を展開する人気店まで強敵がズラリと揃う。その中で福岡の人たちを唸らせる豚骨ラーメンが作れなければ、店を続けることは出来ないシビアな環境だ。
父親の店をそのまま継げば人気店のまま営業が出来ただろう。しかし高田さんは二代目の役目は弟に任せ、自分の力を試すことを選んだ。他と同じラーメンを出していたら博多の街では勝つ事が出来ない。他とは違うラーメンを出して、博多に新しいラーメンの風を吹かせたい。そう考えた高田さんは、全国のラーメンを食べ歩いて研究を重ねた。
「博多って右をみても左をみても同じスタイルのラーメンばかりじゃないですか。他と同じでは面白くないですし、自分だけのラーメンでないと勝つことは出来ないと思ったんです」(高田さん)
食べ歩きを重ねる中で高田さんが衝撃を受けたのが、熊本県人吉の人気店『好来』のラーメンだった。真っ黒い焦がしニンニク油の「マー油」と「自家製麺」。これを博多ラーメンに取り入れようと思った高田さんは、好来に入って教えを請うた。スープの取り方も独自に研究を重ねて、深みのある味わいの豚骨スープを作り上げた。
ラーメン界に新たな刺激を与え続けたい
豚頭とゲンコツを長時間炊き上げたスープは、既存の博多ラーメンよりも濃度は上げながらしつこさは出さない。臭みのない洗練された豚骨スープは老若男女に愛される味わい。自家製麺は歯切れの良さとしなやかさを共存させた。真っ赤な丼に白いスープのコントラストを大切にして、表面に浮かぶ褐色のマー油が色合いのアクセントにもなっている。味だけではなくビジュアルも意識した、他にはない『博多新風』のオリジナル博多ラーメンが生まれた。
「親父も『そんな黒いラーメンを出して大丈夫か?』と心配していましたが、どうせやるなら自分のやりたいことをやり切って勝負したいと思いました。このラーメンで博多に新しい風を吹かせるんだという思いで、店名も『博多新風』にしました」(高田さん)
2005年、『博多新風』が創業すると福岡のラーメンファンは殺到した。それまでの博多ラーメンの概念を超えた『博多新風』の登場によって、博多ラーメンの表現の幅は広がり自由が生まれた。そして多くの若きラーメン職人に刺激を与え、博多ラーメンに新たな潮流を生み出した。『博多新風』の登場によって、間違いなく博多の街に「新しい風」が吹いたのだ。
創業して17年の間に数々の店を出店してきた。関西や東京に出店したこともあり、全国を飛び回り現場を離れることも多くなってきたが、今はまた現場に入ることが増えた。それには長引くコロナ禍も影響していると語る。
「原点回帰の思いで創業店である本店に入っています。創業当初からの常連客の方達にお会い出来たり、新しいお客様とも接することが出来て、たくさん刺激を貰っています。コロナにより状況がいまだ不安定の中で正直先は見えませんが、今後も郊外型店舗やテイクアウト事業などを強化して、いつまでもラーメン界に新たな刺激を与え続けていく存在でありたいと思っています」(高田さん)
※写真は筆者によるものです。
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