研究せずにはいられない~「貧困ポスドク」を救う「在野」研究という道
「貧困ポスドク」の誕生
昨年来、研究者になる道を模索した末に自ら死を選んだ方のことが立て続けに報道されている。
自死の理由は本人にしか分からないが、立て続けに亡くなった私とほぼ同世代の方々の死に、私自身が激しい衝撃を受けたのは確かだ。
教育社会学者の舞田敏彦さんも、同じく40代研究者の死に衝撃を受けたという。朝日新聞の取材に以下のように答えている。
舞田さんは自身のブログで、取材のいきさつなどについて書かれている。
朝日新聞の記事には「貧困ポスドク」という言葉が出てくる。最近別の記事でも見かけた言葉だ。
厳密に言うと、ポスドク(ポストドクター、ポストドクトラルフェロー)の定義は、
なので、研究業務についていない人はポスドクではない。博士号取得後(あるいは大学院修了後)常勤研究職に就いていない者と広く解釈した新語と言える。
解決策は…
舞田さんは、研究職の公募を断られ続け、心が荒んできたという。私自身は大学院入学を断られたのもあわせれば10回弱でしかないが、それでも辛いものがあった。40回も断られることがどれほど辛かったか…。
「貧困ポスドク」を救うにはどうすればよいか。記事(経団連と大学の「通年採用」提言~漂流博士は救われるか)にも書いたが、雇用の仕組み自体を変えることが不可欠だろう。
とはいえ、すぐに仕組みが変わるわけではない。その間にロスジェネ世代(就職氷河期世代)はどんどん歳をとる。
政府は若手研究者を優遇しようとしているが、40歳以上は対象ではない。若い頃には任期制やポスドクの増加、定年延長などで上の世代が優遇され、年齢があがるにつれ、今度は下の世代が優遇される…。まさに研究者版「ロスジェネ」世代だ。
野良でいいじゃないか
本当に絶望的な気持ちになってしまいそうだ。
私自身、この問題の深刻さをかれこれ20年も訴えてきた。話を聞いてくださる方々も多々いた。文科省がポストドクター・キャリア開発事業などを実施したり、経団連と大学がジョブ型採用を提言したりするなど、状況は多少変わってきたが、硬い岩盤のように変わらないものがある。それが大学教員の意識だ。
文科省の事業では、教員に様々な働きかけをしても、だいたい3割程度の教員は、ポスドクの問題などに全く関心がないという。関心ないならまだましだ。一部はポスドクがキャリアを考えることを妨害さえするという。
残りの7割が関心を持ってくれたのでよしとすべきなのかもしれないが、そのなかで多少なりとも具体的な行動を起こす人となると極めて少ない。
私自身次第に大学や研究機関を変えようとすること自体無理なのではないかと思い始めてしまった。
無理とは大げさだが、少なくとも急には変わらない。
だとすると、すぐに変えられるところから変えた方が手っ取り早い。そう、自分の行動だ。
もう大学や研究機関にこだわらず、どこかに職を得よう。まずは生きていくことを考えよう。
しかし、死ぬほど好きな研究から離れたくないという思いは分かる。だったら、どんな職業に就いても空いた時間を使って研究したらいいのではないか。いわば野良の研究者だ。
先駆者あり
野良でも野生でも在野でも副業でも独立でも、言葉はどれでもいいのだが、大学や研究機関に所属しないで研究をするという生き方がある。
そんなことできるのか。バックトゥザフューチャーのドクみたいな感じなのか…。怪しいイメージがあるが…
いやいや、在野で研究をし、実績を残した研究者は存在する。
「沖仲仕の哲学者」として知られたエリック・ホッファー、アパートで研究に没頭した小室直樹。これからのエリック・ホッファーのために 在野研究者の生と心得(荒木優太著 東京書籍)には、数多くの在野研究者が出てくる。
現役の在野研究者もいる。以下は上述の本の著者の荒木氏を含めた在野の研究者のインタビューだ。
ほかには、多数の本の翻訳をされている高橋さきの氏も挙げられるだろう。
在野で研究できるのは人文社会科学系だけというわけではない。数学の森田真生氏、生物学の小松正氏がいる。
クマムシ博士の堀川大樹氏も、在野研究者、独立研究者に数えられるだろう。
理系の研究は、さすがに数学や物理など、大掛かりな装置が不要な分野でないとやりにくいが、近年は自宅に研究室を持ち、試験管を握るいわゆる「ウェット」な実験を行う人たちも出てきている。
NPO法人医療ガバナンス研究所では、医師たちが専門性を生かし、在野で活動している。代表の上昌広医師は、税金に頼らない「自由な民間研究者」を育成せよと主張し、在野で研究を行い、多数の論文を執筆している。
オープンアクセスの広がりで、在野でも読める論文が増えてきている。インターネットが発達した今、在野研究者が活動しやすい時代になっている。
研究でなくても
ただ、分野によっては、かつて大学などで行っていた研究がそのままできないことも多いだろう。お金の制約もある。
その場合でも、決して悲観する必要はない。
研究とは、何も査読論文を書くだけに限らない。論文を読むこと、発言することも研究行為だと言える。自身も会社員として論文を書いていた米本昌平氏は以下のように述べる。
こうしたことは、まさに独立、在野の研究者しかできない役割ではないか。
大学と在野を行ったり来たり
在野に研究者が多くできれば、研究という行為を独占することで権威を持っていた大学や研究機関の在り方が変わってくる。
そして、在野から大学へ、大学から在野へ、という人の循環ができれば、大学に鎮座する硬い岩盤も少しずつ削れてくるのではないだろうか。
私の知人でもある粥川準二さんは、社会学の博士号を持ち、ライターや編集者として仕事をされながら、著書を書いたり、大学で非常勤講師の仕事をされていた。在野の研究者だったが、4月から大学の常勤准教授をされている。
在野でなきゃだめ、大学でなきゃだめ、というこだわりは意味がないのだ。
捏造、フェイクには注意を
ただ、在野研究者も、研究倫理や研究の作法は理解しておくべきだ。
テロに関わったり、人命や環境に害を与えてはならないのは当然だ。
旧石器ねつ造事件は、在野の考古学者F氏の起こした事件だった。
また、フェイクの発表を行わないようにしないといけない。郷土史というのはいい研究テーマだと思うが、一般向け歴史書は注意が必要だ。
研究をやりたくても方法が分からない人たちにアドバイスするのも、大学院を経験した在野の研究者の重要な役割だと思う。研究コーチという新たな職が生まれるかも…というのは妄想しすぎか。
キャントストップリサーチ
時々ニュースで、遺跡の発掘現場の一般公開の様子を見ることがある。たいていそうした場所にはたくさんの考古学ファンが訪れている。
市民が参加する研究も盛んになってきている。
しつこく「なぜ」「どうして」と聞いてくる子どもたちの目は輝いている。人はもともとは好奇心でいっぱいだ。
一度研究に没頭した者は、その体験が忘れられず、もっともっと研究したいと思うのだろう。
人生100年時代。研究でもしないと暇を持て余してしまうかもしれない。
そこに「貧困ポスドク」問題解決の道があると思う。
大学や研究機関の内外の垣根を越えて、どこでも研究できれば、大学の職を得られなかったことは全か無か、生きるか死ぬかではなく、グラデーションをもった問題になる。
もちろん、不当に安い非常勤講師の賃金や、不安定な任期付き研究者が多くいる問題など、それはそれで解決しなければならない問題だ。それを無視しろ、なかったことにしろと言っているわけではない。
こうした問題は、この程度でも職がほしいんだろ、と足元をみられていることに原因がある。
そんな職なんかいらん、とボイコットできれば、待遇を改善しないと大変だということになる。実際現在の若手研究者の世代が優遇されているのも、同世代が研究職の悲惨さに気が付き、研究職を選ばなかったからだ。ロスジェネ世代はそれができないので苦しいところだが、それでも、ひどい条件を足元を見て突き付けてくる大学にノーを言えたらどれだけ気が楽かと思う。
口先だけあれこれ言っても説得力ないので、私自身が実践をもって示したい。在野でできることを追求していきたい。ちなみに在野だった9年前、初の単著「博士漂流時代」を書いた。
キャントストップリサーチ。人は研究できる。いくつになっても、どこでも。