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STAP細胞事件10年〜日本の科学界は変わったか

榎木英介病理専門医&科学・医療ジャーナリスト
STAP細胞事件の渦中、記者会見場には多くのメディアが集まった(写真:ロイター/アフロ)

STAP細胞論文発表から10年

 2024年1月29日。

 この記事が公開された日。この日に何の意味があるか、ピンとくる人は少ないだろう。

 この日は、STAP細胞に関する論文2報がNature誌に掲載されてから10年にあたる日だ。

理研、万能細胞を短期で作製 iPS細胞より簡単に(日経新聞ウェブサイト 2014年1月29日 21:00公開)

 いわゆる「万能細胞」を手軽に作れる方法を見つけたとしてNature誌に掲載された論文の報道が解禁された。画期的な研究成果と、筆頭著者の方が若手の研究者だったこともあって、日本国内が熱狂に包まれた。

 しかし、その論文にその後捏造、改ざん、盗用の研究不正があったことが発覚し、論文は撤回された。ワイドショーが連日取り上げるなど、大きな話題となった。

 当時私もこのYahoo!ニュース個人に記事を何本か書かせていただいた。

早稲田大学の博士論文調査~日本の科学界が失った信用

早稲田大学の博士論文調査にみる「ネグレクト」の痕跡

事実と過度な個人攻撃は分けるべき

STAP細胞があろうがなかろうが

「再現実験」は国民の期待を鎮める儀式

ノーベル賞に「消された」早稲田大学の博士号取り消し決定~目をそらしてはならない

繰り返し言う~研究不正と「STAP現象」ありなしは別次元の問題

 この事件が記憶に残る大きな事件であったことは間違いがない。

 しかし、メディアの取り上げ方を除いてみれば、残念ながらこの事件は、数ある研究不正事件の一つでしかない。不正論文の数、そして影響を与えた範囲がSTAP細胞事件どころではない研究不正がその後も多く明らかになっている。しかし、多くの方々は知らないだろう。

日本発の研究不正論文が世界を襲う

 2024年1月23日付の米国サイエンス誌のニュースサイトは、日本人の研究不正について、厳しく批判する記事を掲載した。

 この記事が掲載した絵が、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」のパロディであることは一目見ればわかるだろう。

 日本人研究者(医師)が100を超える論文を撤回しており、疑惑の論文はそれを遥かに上回っているという。ちなみに関わった研究者は、撤回論文数ランキングの上位4位と6位に位置している。

The Retraction Watch Leaderboard

 なお、この撤回論文数ランキングの2位、3位、4位、6位、8位が日本人、しかも医師だということをご存知だろうか。

 これほどまでに世界の研究者を悩ませている論文を日本人が出しているのに、メディアでは取り上げられることはない。

 なお、この件に関しては、Yahoo!ニュース個人でも取り上げている。

サイエンス誌があぶり出す「医学研究不正大国」ニッポン

 この件は、治療ガイドラインに影響を与えるなど、患者さんに害を及ぼした可能性さえ取り沙汰されるほど悪質な研究不正だ。

[誠実な生命科学研究のために - "Tide of Lies"のその後:臨床研究の不正の影響は大きい]

 この研究不正については、撤回論文監視サイトも厳しく批判している

 にもかかわらず、日本国内での関心はSTAP細胞の足元にも及ばないくらい薄いのが現状だ。

研究不正処分が無効化?

 STAP細胞事件当時、論文の著者が所属していた理化学研究所が大きな批判を浴びた。

 あれから10年。理化学研究所がまた研究不正に関する問題の中心となった。

理研「名大の不正論文」責任著者を採用の波紋 国の研究費配分機関の処分が無効化するおそれ

 記事によれば、名古屋大学で研究不正により研究費停止の処分を受けている最中の研究者が、理化学研究所で研究室を持つことになり、多額の予算を配分されるという。

 この研究不正に関しては、大学院生が行ったもので、教授が直接関与していたわけではないが、研究のチェックをしていなかった監督責任が問われた。

名古屋大学元大学院生による研究活動上の不正行為(捏造・改ざん)の認定について(文部科学省)

 上記ページでは、教授の責任について厳しく批判している。

2人の責任著者は、論文を構成する理論および実験結果等の内容の全てを把握するとともに、それらに研究不正が含まれることがないように注意を尽くす義務を負っている。本件においては、この点が不十分であったと考えられ、実験結果等の確認に対する注意義務を怠ったと言わざるを得ない。明確な切り分けは難しいが、今回の膨大かつ長期に渡る研究不正を見ると、指導教員としての監督責任を果たせていなかったと言わざるを得ない。日ごろからの研究指導において、再現実験の実施や、普段から処理前の生データと実験ノートに向き合って実験結果等を慎重に検討していれば、早期に本件の研究不正に気づけた可能性は高い。このため、両名は不正行為に関与しなかったと認定されたものの、元大学院生の研究不正を防止する監督義務があり、これを怠ったことも本件の間接的な発生要因と言える。元大学院生は、今回、研究不正が明らかになったすべてのデータを1人で測定し、データ処理や作図を実行している。この間、責任著者である教授及び准教授が元大学院生を信頼していたこともあり、科学的コミュニケーションが十分に取られておらず、責任著者の指導・監督が十分でなかったことが不正行為発生の一因と考えられる。

 このように、厳しく批判され、研究費の停止処分を受けている研究者が、別の研究機関に移り、理化学研究所から研究費を受け取ることに、説明責任が生じるのではないか。

 ところが、理化学研究所は、本人が行ったのではないと不問にするようだ。

 この件は、研究不正を部下が行ったとして軽い処分のみで宇宙に行った古川聡宇宙飛行士のケースを思い出す。

信頼回復、道のり遠く 研究不正で戒告―古川飛行士

 一定以上の地位を持った研究者は、多少の問題など考慮されない…。これでは研究不正は「やり得」になってしまわないか。

 しかし、SNS上では、名古屋大教授を擁護する声が多い。日本にとって得難い人材なのだから、こうしたことで足を引っ張るな、という声だ。

 しかし、こうした主張をもし他の業種の人がしたら、どう思うだろうか。政治家、会社社長などが、不祥事は部下が起こしたので関係ない、と言ったら…。

 科学界が信用に値しないと思われたら、科学界にとっても大きなマイナスなのではないか。

航空安全と研究不正〜個人の処罰は問題解決にならない

 1月2日の羽田空港での航空機事故は衝撃的だった。

 この事故に関して、海上保安庁の飛行機の機長や管制官の罪を問うことに異論を唱える声が出た。

日本乗員組合連絡会議は声明を出した。

このような重大事象を繰り返さないために、また事故関係者が通常の生活に一日でも早く復帰するために私ども日本乗員組合連絡会議(日乗連)は以下のように表明いたします。
1.事故調査は国際民間航空条約第 13 付属書に則り再発防止のみを目的とし、罪や責任を課する刑事捜査等の司法行政上の手続きからは分離されなければならない。
2.情報発信は確認された事実のみとし、それ以外の情報を安易に発信することは事故に対する誤った認識を社会に与える恐れがあり厳に慎むべきである。

 航空安全や医療安全では、原因の究明と刑事罰は分離するのが原則だ。そうでないと、罪に問われることを恐れて原因が究明できず、再発防止にならないからだ。

【識者の眼】「医療安全と処罰」榎木英介

 しかし、STAP細胞事件では、調査の段階から筆頭著者を責め立ててしまった。理化学研究所も批判されて改組されたが、研究不正を特定の個人の責任とし過ぎてしまったのではないか。そして、所属機関には、正直に調査したら責められ、ときに改組されることを印象付けてしまったのではないか。

 このマイナス効果は大きい。

 研究機関の上層部などの対応が、地位の弱い研究者だけに責任を押し付けるか、隠蔽したほうがよい、となってしまった。

 研究不正の問題について予備調査でなかったことにしてしまい、公表しなければ、責め立てられることもない。

東大研究不正調査、医学部教授おとがめなしのカラクリ(8月4日東大公開資料追加)

 そしてときに疑義を訴えた人を解雇するなど報復してしまう。

炎上岡山大学~研究不正疑義申し立てた教授が解雇される

 さらにいえば、研究不正を行った者だけを厳罰に処せばいいので、公正な研究環境を保つための努力や手間暇など、時間の無駄で邪魔でしかない、といった、当事者意識を欠いた研究者を生み出してしまったのではないか。そうした意識が、部下の研究不正で処分を受けた教授を擁護する姿勢や、世界各国から批判されても対応をしない状況につながっているのではないだろうか。

 STAP細胞事件は、決して特異な研究不正事件ではなかった。しかし、あまりに過剰な報道が行われ、筆頭著者が注目を浴びてしまったがために、研究不正を生み出す環境に目がいかず、研究者に当事者意識を持ってもらえなかった…。

 10年経って振り返ると、あの事件は科学界にとってマイナスでしかなかったのか…。残念な思いが拭えない。

当事者の奮起を

 こうした状況を変えるためには、科学界内部から行動する研究者が出てくる必要がある。こうした状況を当事者として、自分ごととして考える研究者はきっといる。

 希望はまだ捨てていない。当事者の奮起を心より願う。 

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

1971年横浜生まれ。神奈川県立柏陽高校出身。東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、大学院博士課程まで進学したが、研究者としての将来に不安を感じ、一念発起し神戸大学医学部に学士編入学。卒業後病理医になる。一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事。フリーの病理医として働くと同時に、フリーの科学・医療ジャーナリストとして若手研究者のキャリア問題や研究不正、科学技術政策に関する記事の執筆等を行っている。「博士漂流時代」(ディスカヴァー)にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。近著は「病理医が明かす 死因のホント」(日経プレミアシリーズ)。

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