ネットの誕生に繋がったジョブズの失敗作 〜スティーブ・ジョブズの成長物語〜挫折篇(8)
ジョブズが再起をかけて作ったワークステーション、ネクスト・キューブは全く売れず、失敗作の烙印を押されてしまった。だが、それは巡り巡ってインターネットの登場につながり、CDから音楽配信へ向かう未来を切り拓くことになる。
■ジョブズとゲイツ。失敗作とインターネットの誕生
一九九一年の夏の午後。
結婚したばかりのジョブズの新居に、マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツがやってきた。茅葺き屋根に、黒ずんだレンガの愛らしい家は裏門が開け放たれており、キッチンのドアを開けて入ると、身重の妻ロリーンと裸足のジョブズが彼を迎え入れた。そこは日中、鍵がかかっていないのだ。
ハワイにいたゲイツが、早めに休暇を切り上げてやって来たのは、ジョブズと対談の誘いを受けたからだった。ジョブズもふだん製品発表がない時期に取材を受けないが、ゲイツと話すならと引き受け、休暇先のアワニーから戻ってきた。
ゲイツとジョブズ。ふたりの関係は一言で表せない。
相手の印象を記者がたずねれば、互いに罵倒の言葉が出た。かといって、対談のため互いに休暇先から飛んできたように、当人同士は許せない男と思っていない節があった。
パソコン業界を創ったふたりがこれからの十年を語る───。
その対談の途中で、ジョブズは雑誌の切り抜きを持ってきた。ジョブズとゲイツの友情は終わったと書いてあったが、切り抜きを振り回しながら「この記事は全く事実に反するんだ」とジョブズは記者にまくし立てた。
たしかにWindows開発の経緯は、ジョブズにとって友情への裏切り行為だったかもしれない。思い出すたびに腹が立ったという。ゲイツも、ジョブズによる公然の侮辱に触れれば顔をしかめて憤った。Macが登場するはるか前に、ゼロックスの研究所でGUIを見て、未来を悟ったのはじぶんも同じだったからだ。
だがネクストを巡ってふたりは会談を重ねていた。立場は逆転し、ゲイツはジョブズを門前払いできたが、ジョブズが話をしたいといえば、ゲイツはこれに応じ続けてきたのである。ふたりの間には、何か確かなものがあった。
ジョブズはゲイツの助けを期待していた。
ネクストOSのユーザー・メリットをひとつに絞るとすれば、簡単にプログラムを書けることだった。MacでGUIが登場し、コンピュータの操作は格段に容易になったが、プログラミングは個人の手に及ばないほど複雑化してしまっていた。そうした時代に向けて、根本的な解決策をジョブズは提案したのだ。
ネクストOSの直感的なオブジェクト指向の開発環境を使えば、大学の研究者ひとりであっても、まるでパワーポイントで書類を創るように、アプリを開発できる。人類の創造力が解放され、さまざまなアプリが登場するだろう。世界を変えられるはずだ…。
ジョブズのその想いに反して、ネクストのためにアプリを創るところは全く出てこなかった。それはそうだ。全く売れてないプラットフォームを相手にアプリを創っても、ほとんど客がいない。それでジョブズは旧友のゲイツに頼った。
「あのときはいい思いをさせてやったじゃないか」とゲイツを口説こうとした。
確かにマイクロソフトが世界一のソフトウェア会社になったのは、Macのために書いたエクセルがきっかけだった。だがゲイツはすげなかった。
「市場を獲得したら検討しますよ[1]」
そう応えるゲイツにジョブズは烈火のごとく怒ったが、ゲイツは全く動じない。Macには身が震えるほど興奮した彼だったが、ネクストのどこが革新的なのか、さっぱりわからなかったと言う。UNIXにGUIをかぶせるなんてサンでもやってるじゃないか、と。
遂にある日、ゲイツはこう言った。
「スティーブ、この黒いキューブが世界を変えることはないです」
ジョブズからいつもの怒声は返ってこなかった。彼は口籠り、項垂れた[2]。図星だったのだ。だがふたりはこのとき、大西洋を跨いだスイスで何が起きているのか知らなかった。
CERN研究所では、ふたりと同い年のティム・バーナーズ=リーがその黒いキューブを使ってWWWを生み出していた。リーは、わずか二ヶ月で世界初のウェブ・ブラウザとウェブ・サーバーのプログラムを書き上げた。すべてネクストのオブジェクト指向の開発環境のおかげだという。
「もしネクスト・キューブが無かったら、WWWの開発にあと数年はかかったろう」
そう謝辞を述べている[3]。確かにネクスト・キューブは失敗作だった。だがたとえ失敗作であっても、優秀な魂たちのすべてを結晶した作品は、世界の何かを必ず突き動かすのかもしれない。ネクスト・キューブのおかげで、インターネットの時代は数年早く到来した。
世界は変わろうとしていた。 (続く)
■本稿は「音楽が未来を連れてくる(DU BOOKS刊)」の続編原稿をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。
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[1] アイザックソン『スティーブ・ジョブズ Ⅰ』p.359
[2] "Becoming Steve Jobs" (2015), Crown Business, Chap. 4, p.126 (Kindle edition)
[3] 高木利宏『ジョブズ伝説』(2011) 三五館 第3章 p.219