ジョブズの師、知野弘文禅師 〜スティーブ・ジョブズの成長物語 ピクサー篇(13)
ジョブズは十八歳の頃から知野弘文禅師を師と仰いできた。彼の禅への傾倒は深く「シンプルなこと」を最上とする彼の経営手法、Apple製品のデザイン、そしてボタンを極力省いたiPhoneにまで連なり、やがて世界を変えることになる───。
音楽産業、エンタメ産業そして人類の生活を変えたスティーブ・ジョブズ、没後十周年を記念した毎日連載、二十三日目。
■ジョブズの師、知野弘文禅師
禅僧、知野弘文《こうぶん》は思い出していた。
初めて会ったとき、ジョブズは十八歳だった。ある晩、チャイムが鳴り、玄関の戸を開けるとボサボサの髪に穴だらけのジーパンの少年が裸足で立っていた。何の用かと聞くと「悟りを得た」と物凄い体臭の少年は言う。
いっしょに玄関に来た妻が「あなたの信者はおかしな人ばっかり」とカンカンになってしまったので、少年と外に出て話を聞いてやった[1]。
悟ったという根拠は何かと訊くと、まだ見せられないが今度持ってくる、とよくわからないことをいう。ほどなくして再訪した少年が「これです」といって小さい板を見せた。誕生したばかりだったパソコンのマザーボードだった…。
若き日のジョブズは孤独だった。友人を許せず、すぐ絶縁状態にしてしまうからだ。だから、どんな話でも裁かずに聞いてくれる知野のような存在はかけがえがなかった。
二十歳のジョブズが起業するか、日本の永平寺で僧になるかか迷っていると相談してきた時は「すべてが修行の道なのだから」と出家を思いとどまらせた。
実の父に捨てられたトラウマがあったのだろう。父親になるのが怖くて、なかなか認知しなかったため関係のこじれた長女のリサについて相談したのも知野だった。知野は、リサのゴッドファーザー的な存在となった。
Appleから追放されたジョブズの願いで、知野はネクスト社へ定期的に顔を出した。そして散歩をしながらジョブズの苦悩をいろいろ聴いた。
この師弟はどこか似ているところがあった。
「弘文は、人物像を描くのがとても難しい人。悪いところもいっぱいあったけれど、釈迦の心をひたむきに学び、真実に生きたことは確かです。天才、純心、卓越した洞察力…良い家庭人ではありませんでした」[1]
知野を知る人たちは彼をよく「天才」と呼ぶ。ジョブズと同じ称号だ。京都大学で西洋哲学と西田幾多郎を研究し、永平寺に仏教を学んだ知野は、ジョブズとおなじく西洋的知性と東洋的直感の融合を目指していたという。
「雲のような人」ともよく評された。僧でありながら彼は、ジョブズと同じく寺の規則や束縛を嫌った。それで日本の仏教界を飛び出し、何ものにも囚われない禅の自由な精神を、自由の国アメリカで追求しに渡米した。
知野は、ジョブズに無かった美質も備えていた。釈迦の精神に忠実に、人を性格や行為で白黒つけなかったので、誰に対しても自然体の好意を絶やさなかったのだ。自然、聞き上手となったせいでアメリカ女性にもてたのは、彼にとって想定外だった。そのせいで知野は、ジョブズと同じ悩みを抱えることになった。
ロリーンと知り合うまで、ジョブズはじぶんと同じタイプと付き合ってきた。スピリチュアルでクリエイティヴ。強い信念と繊細な美的センスを合わせ持つが、どこか神経質で不安定。落ち着きを与えてくれるタイプではない。
知野もまた、アメリカでそういう女性を娶った。茨の道とわかっていたが「修行のつもりで結婚した」と言う。ふたりでどんな話をしたか、ひけらかすことの嫌いな知野は記録を残さず死んでしまった。だが不安定な女性に振り回される師弟は、同じ悩みを語り合うこともあったろう。
空を突くほどに聳えるセコイヤ杉のもとで目を伏せる新郎新婦を見て、知野はジョブズとの二十年近い付き合いを思った。
きっとロリーンは、不安定な彼のこころに錨を与えてくれるだろう。スピリチュアルな気質ではないが、理知的で落ち着いた女性だ。経済的にも精神的にも自立していて、ジョブズの負担になるところもない。おだやかな家庭を築くはずだ。
知野は、ふたりを祝福した。
十一年後。iPodがウィンドウズに対応し、Appleが音楽ビジネスに本格進出した翌週のことだった。弟子に請われ、禅寺を建てにスイスへ来ていた知野弘文は、娘と湖のほとりへ出かけた。はしゃぐ娘が誤って湖に落ち、助けようとした知野はいっしょに溺死した。
「なぜ…どうして…」
ジョブズから電話を受けた兄弟子は、彼が嗚咽を漏らし、ときどきそう呟くのを受話器越しにずっと聞いていた。
(続く)
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[1] 柳田由紀子『スティーブ・ジョブズが愛した禅僧、乙川弘文評伝(3)』2014年6月4日
http://www.yukikoyanagida.com/article/398698982.html