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失敗を繰り返した若き日のジョブズ 〜スティーブ・ジョブズの成長物語〜挫折篇(1)

榎本幹朗作家・音楽業界誌Musicman編集長・コンサルタント
映画『Jobs』でアシュトン・カッチャーの扮する若き日のスティーブ・ジョブズ(写真:Splash/アフロ)

スティーブ・ジョブズが没して今月で十年が過ぎた。ダメ経営者と呼ばれていた彼は、いつ、どこで、どのように史上最強の経営者に成長したのか。彼の公私に渡る成長はやがて音楽産業やエンタメ産業のみならず人類の生活全般までも変えていった。公式自伝とは別の視点で本日より集中連載でその秘密を探ってゆく。

■失敗を繰り返した若き日のジョブズ

 学生時代のジョブズは精神の解放、覚醒或いは悟りに強く惹かれていた。だから起業した頃、彼はAppleを去り、福井県は永平寺の僧になろうか本気で迷っていた。

「ビジネスマンにはなりたくなかったからね」と彼は振り返る。「あんなふうになりたくないと思うやつばかりだった」[1]

 結局、敬愛する知野弘文師にジョブズは出家の志を伝えたのだが、師から日本語訛りの英語でこう諭された。すべてが修行、事業も座禅も同じ修行なのだと。この時、彼の道は定まった。

 旅こそが報い。一意専心。アメリカ人らしく、禅語は彼の仕事哲学となった。そして禅僧が只管打坐するがごとく、コンピュータ革命の実現に打ち込んでいくのである。

 それから六年後———。

 パルアルト郊外の、広大な自宅でひとり雑誌を広げた若きジョブズは得意顔だった。別冊『最新ジョブズの本』。二十代の半ばにして、権威あるタイム誌にここまで取り扱われる起業家にじぶんはなったのだ。だが読み終える頃には彼の体は震え、赤面していた。

 Apple I、Apple Ⅱを創ったウォズニアックこそ真の天才で、ジョブズは友人の立場を利用し、口先で財を成したビジネスマンにすぎない。それがタイム誌の評価だった。

「スティーブは、回路づくりもデザインも、あるいはコーディングも一切やってない。彼はコンピュータに本当に関わってきたとはいえないんだ」[2]

 取材に答えたウォズニアックのその言葉は、彼の心臓を突き刺した。

 醜聞も添えられていた。ジョブズは、実の親に捨てられたことに苦しんできた。それなのに高校時代からのガールフレンド、クリスアンとの間に生まれた娘を認知しようとすらしない。会社のみんなは心配している…。

 学生時代からの親友、コトケが周知の事実と勘違いし、ジョブズの秘密を記者に語ってしまったのだ。

 他のApple社員も辛辣だった。「技術のことはあまりわかっていない」「フランスの国王にしたらさぞかし立派だったに違いない」等々。

 百五十万人の読むメディアで、彼は自画像を初めて知った。それはかつて思った、あんなふうになりたくない軽薄なビジネスマンそのものだったのだ。

 七十年代のアメリカ西海岸で多感な時代を過ごした彼は、ディランやビートルズの創作活動に憧れ、Appleを創業した頃にはガレージ裏でよくギターを爪弾き、歌っていた。

 じぶんの天命は音楽ではない。かわりに人類の最大の発明であるコンピュータの創成期に立ち会う幸運に恵まれた。この世界で、音楽に匹敵する何かを創りあげたい。その欲望に苛まれてきた。

 そんな彼にとって「口がうまいだけのセールスマン」という風刺画以上に、核心を突いた侮辱はなかった。彼は涙さえ流した。

 じぶん自身の作品を完成して、みずから証明するしか無い。いま手がけているマッキントッシュを最高の作品に仕上げ、ウォズニアックのApple Ⅱを超えてやる。そう誓ったのである。

 その闘志が、若い彼を歪めたのかもしれない。

 高校時代、ボブ・ディランの大ファンになったのは、大学生だったウォズニアックの影響だった[3]。ふたりで電話会社AT&Tをハッキングし、世界の要人にいたずら電話をかけまくる道具、ブルーボックスを創って売り、高校生ながら彼女のクリスアンと二人暮らしを営んだ。そしてウォズニアックと共に起業した。

 だがいまや、彼は相棒のウォズニアックに激しい敵意を向ける他なかった。

 大学を中退した頃、ジョブズはクリスアンと一緒に、同級生だったコトケの家へ転がり込んだ。コトケとは何十冊もいっしょに精神世界の本を読み、屋根裏で座禅を組んだ。いっしょにインドまで行き、『あるヨギの自叙伝』に二人とも心酔した。だがもう、二度と彼と口をきかなかった。

 それから二年後———。

 詩の朗読から始まった株主総会はこれまでなかったし、これからも無いだろう[4]。一九八四年一月二十四日、ディランの『時代は変わる』を開会の冒頭に詠み上げる若きジョブズに、生真面目な証券アナリストたちは目を白黒させ、彼に慣れた記者たちは冷笑を送った。

「今の敗者が勝者にかわる」だって? 上場以来、Appleは負けが込んでいるではないか。彼らはそう思ったのである。共同創業者ウォズニアックの傑作Apple Ⅱの大成功を見て、IBMがすばやくパソコン事業に参入し、わずか二年でAppleの売上を追い越した[5]。

 それは巨人らしからぬ素早さだった。

 イノベーションのジレンマを避けたIBMは、少人数のチームでIBM PCを完成させ、ソフトは外注を活用。小さなヴェンチャーだったマイクロソフトのMS-DOSを採用することで、わずか数ヶ月で追撃してきたのだ。

 先駆者Appleの方は、自失点を繰り返していた。

 大ヒット作Apple Ⅱの後継機、Apple Ⅲは成功間違いなしのはずだった。だが経営陣がマーケティング主導で仕様を決めたので、何もかもが、ちぐはぐとなり、Apple Ⅱとの互換性をほとんど喪失。ソフトウェア開発者のApple離れが始まっていた。

 しかもジョブズがコンパクトな美しいデザインと、ファンレスの静音に拘ったあまり、窮屈な筐体の中、オーバーヒートした基板が問題を起こした[6]。ロサンゼルスのディズニーランドを借りきって盛大にお披露目した直後、ハンダ付けの不良で全店返品対応という醜態を晒してしまう。

 続いて出したLisa《リサ》は、パソコン史上初となるGUIを備えた、画期的な製品となるはずだった。

 だがジョブズの独裁に開発チームが愛想をつかし、彼を追放。反動でエンジニアが民主主義で仕様を決めてしまう。エンジニアたちの理想を全て詰め込むと、価格は一万ドル、当時の日本円で二〇〇万円以上になってしまった。

 彼らは高額なLisaをビジネス市場で売ろうとしたが的外れだった。企業は格安のIBM PCのほうを喜んで買った。その失態はAppleが、早くも大企業病に罹ったことも暗示していた。クリスアンとの間に生まれた長女リサの名を付けた、画期的なパーソナルコンピュータは大失敗に終わった。まるで、赤ん坊のリサを頑なに認知しなかった天罰が下ったかのように…。

 Lisa《リサ》チームから追放されたジョブズだったが、ジェフ・ラスキン率いる社内のマッキントッシュチームを乗っ取った。そしてウォズニアックが飛行機事故で入院したのを機に、彼のApple Ⅱ部門から才能あるエンジニアと予算を強引に奪い取った。

「海軍に入るより海賊になれ」

 そう書いたTシャツを配り、Aクラスだけを集めた百人のチームを本社ビルから隔離して率いてきた。後に『イノヴェーションのジレンマ』のクリステンセン教授が範とする手法である。

 Appleの罹った大企業病を治すのはそれしかない、そうしなければ会社はいずれ崩壊する。ジョブズはそう思っていた。

 実際そうだった。Apple Ⅲの失敗で、Macまでも失敗したら会社には何も残らない。そこまで来ようとしていた。リリース予定日を二年も跨ぎ、開発費は見積の二十五倍に膨らんでいた。

 二十代半ばのジョブズは、才能を集める才に長けていただけでない。とびきり優秀ゆえに一筋縄でいかない彼らを、最高にエキサイティングなヴィジョンで燃え上がらせ、一体にした。情熱的な説得で、ひとりひとりのどんな些細な役割にも、世界的な使命感を与えて回った。

 誰かが難所を乗り越えると、ジョブズはすぐに小切手を切って特別ボーナスを渡しに行き、握手して労った。チームがマイルストーンに到達すると、シャンパンを開けこれを祝った。三ヶ月に一度、ハワイ合宿へチーム全員を引き連れて行き、士気を高めた。

 オフィスにはゲーム機やピンポン台、搾りたてのオレンジジュースとにんじんジュースと、最高級のオーディオがあった。当時、CDは誕生したばかりだったが、Sonyの創った世界初のCDプレイヤーと、第一陣として発売されたCDアルバム百枚のすべてが揃っていた。

 生涯最高の仕事をひとりひとりにしてもらいたい。

 そのためには最高の仕事場を提供する。若きジョブズはそう考え、実行したのである。遊び心あふれた飛び切りのオフィス。後にグーグルなども踏襲するシリコンバレーのこの職場スタイルは、ジョブズが始めた伝統だったと云われている。

 ジョブズは終生、病人に無類の優しさをみせたが、この時も社員が病気にかかれば小さくは風邪薬から、大きくは手術代と入院費まですべて支払った[7]。

 その楽しげな外観とは裏腹に、長時間労働を競い合うブラックな職場でもあった。若き船長は疲労困憊の海賊たちを鼓舞しつづけた。

 楽しみも苦しみもいずれ過ぎ去る。だが決して消え去らない幸福がある。それは魂のすべてを叩き込んで、何かを成し遂げた者にしか味わえぬ誇りであり、充実感である。そう彼は信じて部下を率い、約束の地へ辿り着いたのだった[8]。

 壇上のジョブズは、これから披露する作品に絶対の自信があった。

 ディランの詩を朗読した後、かれはおもむろにコンピュータ産業の歴史を語りだした。研究施設を埋め尽くす、巨大なメインフレーム・コンピュータの時代はIBMが創った。しかし冷蔵庫サイズのミニコンピュータが登場した時、IBMはこれを軽視し、DECが王座を奪った。

 Apple Iの登場で、コンピュータが机に置けるサイズまで小さくなり、ミニコンからパソコンの時代となった。その時も、IBMは「こんなおもちゃ、マニアしか使わない」と鼻で笑った。だが、Apple Ⅱの成功で眼の色を変えて追撃してきた。

 先駆者の後に、模倣者が続くのが世の常だ。

 彼らの戦略は決まっている。模倣にちょっとばかりの目新しさを装い、価格競争に持ち込んで先駆者の利益を奪い取る。結果、世界に模造品があふれ、人類の精神は後退することになる。

 模造品には粗悪な精神が宿っているからである。

 それがジョブズの感じ方であり、彼にとって、IBMのPCはそれだったし、後の彼にとってWindowsやAndroidがそうだった。模倣者が追い上げてきたとき、先駆者のすべきことはただひとつ。

 本質的な創造をふたたび、みたび、世に問うことだ。

 全米に衝撃を起こすことになる衝撃的なCM、通称『一九八四』をスクリーンに映した後、壇上のジョブズは言った。今から見せる製品は、コンピュータと個人のあいだにあった垣根を取り払う画期的なものである、と。

「では直にお見せしましょう」

 シルクハットからうさぎを取り出すように、キャリーケースから片手でひょいと一体型のマッキントッシュを出し、机に置いた。人類の誰もがコンピュータを持つ時代を到来させる。その決意を表現した演出である。

 フロッピーをMacの口に放り込むと、ヴァンゲリスの『炎のランナー』が会場に流れる。音楽に乗って「マッキントッシュ」の文字がスクリーンをゆっくり横切ると、会場を埋めるシニカルな批評家たちは、みな熱狂的信者に変わった。

 世界初の美しいフォント表示。それは技術と芸術が交差した瞬間だった。ずっと続くスタンディング・オベイションの最前列には、感激のあまり泣きじゃくる百人の開発スタッフたちがあった。

「週九〇時間、喜んで働こう!」「旅こそ報い」と叱咤激励するジョブズの元、休日の無い徹夜だらけの千日を過ごした。無数の難関を創意と工夫で乗り切った。そしてAppleはふたたび世界を変えたのだ。

 最前列のスタッフ陣を壇上から見つめるジョブズも、目に涙を浮かべていた[4]。(続く)

■本稿は「音楽が未来を連れてくる(DU BOOKS刊)」のの続編原稿をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。

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[1] マイケル・モーリッツ著『スティーブ・ジョブズの王国』(2010)プレジデント社 第10章 p.207

[2] ジェフェリー・ヤング著『スティーブ・ジョブズ パーソナルコンピュータを創った男(下)』(1989) JICC 第14章 p.75

[3] Softpedia News, by Filip Truta "Wozniak Breaks the Silence, Says Jobs Movie Was “Largely a Lie About Me”" Jan 21, 2014

https://news.softpedia.com/news/Wozniak-Breaks-the-Silence-Says-Jobs-Movie-Was-Largely-a-Lie-About-Me-419039.shtml

[4] Jeffrey S. Young (1987) Steve Jobs: The Journey Is the Reward, Scott Foresman, Chap.16

[5] スティーブ・ウォズニアック『アップルを創った怪物』(2008)ダイヤモンド社 第15章 p.324

[6] ジェフェリー・ヤング著『スティーブ・ジョブズ 偶像復活』(2005) 東洋経済 第2章 p.90

[7] Jay Elliot, William No. Simon (2011) The Steve Jobs Way, Vanguard Press, Chap.2 p.51

[8] Adam Lashinsky "Inside Apple: How America's Most Admired--and Secretive--Company Really Works"(2012), Business Plus, Chap.2 p.47

作家・音楽業界誌Musicman編集長・コンサルタント

著書「音楽が未来を連れてくる」「THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記」(DUBOOKS)。寄稿先はNewsPicks、Wired、文藝春秋、新潮、プレジデント。取材協力は朝日新聞、ブルームバーグ、ダイヤモンド。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビ等。1974年東京都生まれ。上智大学英文科中退。在学中から制作活動を続け2000年、音楽TV局のライブ配信部門に所属するディレクターに。草創期からストリーミングの専門家となる。2003年、チケット会社ぴあに移籍後独立。音楽配信・音楽ハード等の専門コンサルタントに。2024年からMusicman編集長

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