「ここじゃ終わらへん!」― ルーキーイヤーを終えた横浜DeNA・山本祐大の根底に今もあるもの
■しっかりと爪痕を残したルーキーイヤー
まもなく2018年が幕を閉じる。横浜DeNAベイスターズの山本祐大選手にとって、ルーキーイヤーはどんな1年だったのだろう。
1年前の今ごろはドラフト指名され、胸をときめかせて年明けを待っていた。(参照記事⇒入寮直前の決意)
1月に入寮し、新人合同自主トレ初日の午後にインフルエンザで離脱した。
2月のキャンプではファームながら練習試合の“開幕マスク”を任された。1軍の休日に足繁く見にきていたアレックス・ラミレス監督に、その大きな声や元気いっぱいの動きでアピールしまくった。
3月はイースタン・リーグの開幕戦で、またもや先発マスクをかぶった。そこから試合を重ねて経験を積み、少しずつ自信もつけていった。なかなか快音は出なかったが、首脳陣による打撃の評価は決して悪くはなく、4月に入ってようやく初安打を記録した。
そして5月、なんと1軍に抜擢された。ファームの首脳陣も驚いたが、なにより本人が一番ビックリした。そして1軍デビューも果たした。東京ヤクルトスワローズ戦で出場機会が訪れ、国吉佑樹投手とのバッテリーで1イニングをしっかり抑えた。山田哲人、青木宣親、坂口智隆という燕が誇る好打者3人だ。さらにウィニングボールもプレゼントしてもらえた。(参照記事⇒初の1軍出場・“持ってる”もの)
6月にはイースタンで初本塁打も飛び出した。そしてフレッシュオールスター選出が発表され、7月にはそのフレッシュオールスターで、各球団のホープたちと渡り合った。
さらに8月には2度目の1軍昇格を果たし、なんとプロ初打席を本塁打で飾った。代打での初打席本塁打はプロ野球史上16人目(セ・リーグの新人では3人目)の快挙だ。(参照記事⇒プロ初打席本塁打)
そして「みやざきフェニックス・リーグ」、秋季キャンプを経て、11月から12月にかけて台湾での「アジア・ウィンターリーグ」にも参加した。ベイスターズはウエスタン選抜に配属されたため、これまで関わりのなかった選手たちとも交流を深めることができ、さらなる鍛錬を積んで帰国した。
■同い年の選手と同じ晴れ舞台に立てたフレッシュオールスター
プロの水にすっかり馴染んだ。チーム内でも多少なりとも存在感を発揮することができた。さらに他球団の選手との交流は、山本選手におおいに刺激を与えた。その最初の機会は7月のフレッシュオールスターだった。同級生たちからは1年遅れのプロ入りだったが、同じ晴れの舞台に立つことができた。
「(フレッシュは)めちゃくちゃ楽しかったですっ!」と笑顔を弾けさせる。「その場の雰囲気も楽しくて、いろんな人と野球やれて高ぶりました!キャッチャーが3人とも、僕も合わせて同級生だったんです。郡(拓也、北海道日本ハムファイターズ)、古賀(優大、東京ヤクルトスワローズ)、僕。だからなおさら楽しかった」。目尻を下げて語る。
これまでイースタンで対戦はあっても試合前に挨拶をする程度で、特に深い会話をすることもなかったのが、これをきっかけに「けっこうしゃべるようになりました」とうなずく。
出場は四回からの3イニングだった。「ゲームも楽しかったんですけど、皓亮(阪口、ベイスターズ)と組んでホームラン打たれたんで、皓亮には申し訳ないなという気持ちはありました。でも皓亮もまっすぐで押せるなら押していきたいって言ってたんで、まぁお互い意図は通ってたんで。シーズン中じゃなかったし、割り切れました」と振り返る。
そんな中、見せ場は作った。自慢の強肩をしっかりとアピールした。「盗塁は絶対にくると思ってたんで、絶対に刺したろと思ってて(笑)。一発目で刺せて(走者は周東佑京、福岡ソフトバンクホークス)、二発目、島田(海吏、阪神タイガース)さんが出て、走ってアピールしてくるに決まってるわと思ったんで、ここで刺したら俺のアピールになるぞって(笑)。でも高めに浮いてセーフになりました…全力で投げましたけど」。
刺した1つ目もそうだったが、山本選手にしてはいずれも送球が高かった。「伸びました!」と本人も目を丸くする。「たぶんアドレナリンで、いつもならこういくのが、こういきました」と身振り手振りで説明する。
どうやらアドレナリンの分泌によってよりスピンがかかり、ボールがホップしたようだ。それで狙いより高めにいってしまったのだ。その話しぶりから、そのときの興奮度が伝わってくる。
しかし捕ってからセカンドまでの送球の秒数も目を見張るもので、「山本祐大=強肩捕手」という情報は、全国のプロ野球ファンの脳裏にくっきりと刻み込まれた。
打席に立てたのは一度だけだったが、その相手は広島東洋カープの高橋昂也投手だった。結果は思いきりスイングしての三振だった。
■プロを意識することすらなかった高校時代
高橋投手も同い年だ。高橋投手といえば花咲徳栄高3年時、寺島成輝(履正社高―東京ヤクルトスワローズ)、藤平尚真(横浜高―東北楽天ゴールデンイーグルス)、今井達也(作新学院高―埼玉西武ライオンズ)とともに「高校ビッグ4」と称された。そのほか、同学年には全国で名を馳せた選手が多数いた。
高校3年当時の山本選手はどのような思いでいたのか訊くと、ライバル意識など皆無だったという。それどころか「同級生で活躍してたら、やっぱ見るじゃないですか。でも自分には縁もないし、『うわっ!コイツ、すごいな!ほんま、えぐいわ!』とか言ってる、それくらいのレベルでした」と、まるで別世界の存在のように感じでいたという。
自身は「プロに行けるなんて、思ってもなかった。プロ志望届の話すらなかったし、スカウトの話すらなかった」という状態だった。
在籍していた京都翔英高からは石原彪選手が東北楽天ゴールデンイーグルスに8位指名されたが、特に悔しさもなかったと振り返る。「石原は肩強い、バッティングいい。甲子園でも2本、二塁打を打ってるし、こういうヤツがプロ行くんやろなと思ってました」。ドラフトは他人事で、どこか達観していた。
山本選手の中では「僕の目標は将来、野球でお金を稼ぐことやったんですよ。だから大学に行って、それから社会人か、もし行けるのならばプロに…」と、遠い将来にほんのりとプロがなくはないという消極的な願望であって、その時点でプロは遥か遠いところにある、手の届かないものだった。
それが入学直前に大学進学を断念したことによって、運命が大きく変わりだした。独立リーグに入り、その肩がプロのスカウトの目に留まるようになると、その思いも変化していった。自分で考え、自ら選択したことによって眼前に示される道が変わり、思いもしなかった境遇が己の願望を激変させていったのだ。
あんなに遠く、まだ意識をすることもなかったプロ野球という世界が、一気に身近になった。
そして、とうとう追いついた。「えぐいわと思ってた子たちが同級生にいて、同じ舞台で試合できてるのはすごく幸せ」。高校3年時には考えられなかったことだ。
「僕は注目されてきたわけじゃないし、どっちかというと下に見られて、這い上がってきた感じなんで。高校の同級生とかも僕のことナメてたと思うけど、1軍でのホームランで『オマエ、すごいわ!』ってなったし。独立リーグからプロ行っても活躍できるってことを、ほんの少しだけど証明できたし。いや、まだ全然やけど。でもそういう部分では見返せたというか、嬉しいなと思います」。
自分の力で手にしてきたことに充実感を漂わせる。
■実体験から会得した「ここじゃ終わらへん!」
ここまでの歩みに喜びを感じつつ、しかしその一方でしっかりと自身の手綱を締める。「こういうときこそ、初心に戻って、また一からしっかりやっていきたい」―。決して浮かれることはない。こういう思考の礎を築いたのもまた、高校時代だった。
2年まではレギュラーですらなかったという。「準レギュラーみたいな感じだった。この日、コイツが調子悪かったら後半からいく、みたいな」。そんな位置づけだった。
2年冬のある日、親友と話し込んだ。寮も一緒だった、とても仲のいい同級生だ。「俺ら、このままじゃあかんな。甲子園に行くためには俺らが練習してレギュラー獲って、そうしないとあかんな」。
その日を境に、ふたりで一緒に猛練習した。「めちゃくちゃ練習して、お互い3年の春も夏もレギュラー獲れたんですよ」。心の底から喜び合えた。
この実体験で得た感覚が、今も山本選手の根底に流れている。「そこで勝ち取ったんで、成功例があるじゃないですか。自分もはじめからレギュラーじゃなくて、『ここじゃ終わらへん!』っていう気持ちでやって、それが今もずっとある」。
それを持ち続けたからこそ、当時は想像もつかないくらい遠い世界であったプロ野球も、後に身近に引き寄せることができたのだろう。
「ここじゃ終わらへん!」―。この思いをずっと持ち続ける山本選手は厳しいプロの世界で、これからも上へ上へと昇っていくだろう。
(撮影はすべて筆者)
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