阪神OBたちが関西に里帰り! 坪井智哉監督が率いる石狩レッドフェニックスはグラチャン初勝利を目指す
■阪神タイガースOBたちが関西に
ストレッチで十分に体をほぐしたあと、若い打者たちと対峙する。打撃投手として、黙々とボールを投げ込んでいるのは元阪神タイガースの坪井智哉氏だ。
独立リーグの北海道フロンティアリーグ・石狩レッドフェニックスの監督を務め、今年3年目を迎えた。坪井監督を支えるコーチングスタッフには、的場寛一氏(野手総合コーチ)、金村曉氏(投手コーチ)と元虎戦士が顔をそろえている。
虎党にも馴染み深い彼らは4月の約20日間、関西に“里帰り”していた。開幕前のキャンプとして、北海道よりも気温の高い関西の地で合宿を行い、練習や練習試合に汗を流したのだ。
■NPBでは選手14年、コーチ7年
坪井監督は1997年のドラフト会議で4位指名され、東芝からタイガースに入団。ルーキーイヤーの1998年、史上初の新人での初回先頭打者ランニングホームランを放ったのをはじめ、首位打者争いをするなど大活躍し、打率.327(リーグ3位)で新人特別賞に輝いた。
135安打の球団新人最多安打や球団新人最多(当時)の11度の猛打賞など、数々の新記録をマークし、翌年も3割を達成して新人から2年連続で3割打者となった。
2002年オフに北海道日本ハムファイターズにトレード移籍すると、初年度にまた首位打者争いを演じ、史上初の両リーグ入団1年目で打率3割超えを達成する.330を記録し、北の大地でさらに輝きを増していった。
オリックス・バファローズでの1年間のプレーを経て、2012年からはアメリカの独立リーグを経験したのち、横浜DeNAベイスターズに乞われて2015年から打撃コーチを務めた。
■熱意に突き動かされた
2021年に退団後は、「解説の仕事をしながら趣味のゴルフでもして、ゆっくりしようかなって感じだった」ところに、人づてに「話だけでも聞いて」と監督のオファーが届いた。
「最初は全然やる気はなかった」が、心を揺さぶられたのが球団代表・老田よし枝氏と副代表・指田準一氏の熱意だった。「そもそも独立リーグに興味がなかったけど、あまりにも熱い思いを伝えられて。『この子たちをなんとかしてあげたいんです!』って我が子を見守るような、ね」。そもそも自身が“熱い男”である。その情熱に突き動かされた。
「全員がNPBに行きたいのではない。行きたい子ももちろんいるけど、いつ野球を辞めようかと“辞めぎわ探し”をしている子もいる。『もう全部含めてなんとかしてあげたいんです』っていう球団代表の言葉もあった。それなら僕が背中を叩いてあげるのも仕事かなと。自分的にも人生勉強にもなるし、将来的に自分の教え子が羽ばたいていくっていうのも…って、いろんな思いから引き受けることにしたんです」。
「北海道」というのも非常に大きい要素だった。「第二の故郷だから。(古巣の)日ハムではないけど、広い意味で北海道にはね、やっぱ何か恩返しをと思っていたので」と、決意を固めた。
■「こんなの草野球だよ!」
ただ、やるからには徹底してやる。中途半端は大嫌いだ。腹をくくって引き受けた坪井監督は、「最初は驚くこともいっぱいあったし、腹が立つこともすごく多くて」と、試合の指揮や選手の指導にとどまらず、スカウティングや球団運営、集客など、気づいたことにはどんどん意見を述べた。
野球界の王道を歩き、トップリーグの厳しい世界でやってきた身にとっては、甘さを感じることが少なくなかったのだ。
「かなりぶつかったし、とことん話し合った。選手のレベルも含めて、考え方のゆるさというか、浅さというか…ジレンマはすごくありました。『やってやるぞ!』と意気込んで引き受けたけど、何度も心折れそうになったし、これじゃきついなっていうのが正直ありました」。
時には怒りに任せて「こんなの草野球だよ!」と声を荒らげたこともあった。真剣だからこそ、怒りも湧くのだ。丁々発止のやり取りを繰り返した。
■3年目の指揮を執る決意
2021年に発足したレッドフェニックスだが初年度は監督も不在で、選手も満足にそろっていなかった。坪井監督が就任した2022年も、野手はたった10人だった。
「たとえばボーンヘッドする選手、全力疾走しない選手、ベースカバーを怠る選手に『野球をナメてんのか!』って注意しても、次のゲームには使わないといけない。『ちょっと頭冷やしてこい!』って(ベンチから)外すこともできなくて、そこがすごく難しかった」。
やり繰りが至難であるのはもちろんのこと、選手に精神的成長を促せる環境にもなかった。
それでも坪井監督は見捨てることはしなかった。1年目が終わったあと、選手の数や環境などさまざまな要望を出し、球団代表から「改善していきます」との約束を得て、続投を引き受けた。
強くしたい、選手を成長させたい、ゆくゆくはNPBにも輩出したい―。チームのこと、選手のことを考えるからこその要望だ。産声を上げて間もない球団を、一緒に育て上げていきたいとの思いゆえだった。
訴えに真摯に応えてくれ、「変わっていっている最中ですね。まだまだですけど」と徐々にだが改善が進み、3年目の今季も坪井監督は指揮を執る。
■あらためて野球を勉強する
NPBでコーチとしての指導者経験はあるものの、監督業は初めてだ。しかもそれが独立リーグとなると、「シンプルにやることが多い」と笑う。
「バッティングコーチだったらバッターのことだけ見ていればいいけど、監督となると投手も野手も見ないといけない。ゲーム中は作戦を立ててサインも出すし、ポジショニングの指示も出す。ピッチャー交代のときはマウンドに行くし、ピッチャーにも声をかける。家に帰ったら、スコアを見て…あ、スコアも自分でつけているから、試合中に。細かいところは書けないけど、だいたいの流れは書いていて、それを見返しながら『あぁ、あのときなぁ、やっぱりバントじゃなくてエンドランやったかな』とか自分の反省もする。とにかくやることが多い」。
部門ごとにコーチやスタッフがいるNPBの監督とはまるで違う。打撃投手など裏方の仕事まで、やることは多岐にわたる。
だが、支えてくれるコーチ陣が頼もしい。
「内野のことはわからないから、寛ちゃん(的場コーチ)に教えてもらう。たとえばピックオフとか、詳しいことはわかんないわけ。(選手時代)外野手はそのミーティングに入ってなかったから。(内野手出身の)寛ちゃんがいてくれてすごく助かっている。ピッチャーにも『腕振れよ』とか『低めに』とかしか言えないんだけど、今年から金村くんが来てくれて、専門的に教えてくれている。やっぱプロでコーチしていたのは全然違うから」。
自身も「野球に関して、いろんなことが勉強できる」と、専門外のことを貪欲に学んでいるという。
■“坪井野球”とは
坪井監督が掲げるのは「守りの野球」だ。
「僕はバッターをやっていて、基本的にいつも打てるわけないと思っている。全く打てない試合もあるだろうし、カンカン打てたら監督なんて何もしなくていい。打てない試合もあるから、投手力や守備に重きを置いてやっている。だから、どっちを取る(起用する)っていったら、やっぱ守備の子を取りますね」。
加えて、打席で粘れる、四球が選べるなど、「確率の高い選手」を重用するという。
「確率を上げるという作業なので、そのために選手は何をするか、監督やコーチは何をするか。1パーセントでも確率が上がることをやって、それで負けたらしゃあない。やることをやるっていうだけのこと」。
その追求がチーム力を徐々に底上げし、勝利を手繰り寄せてきた。
■グラチャンで認知度を上げる
監督就任後、2年連続でリーグ戦は1位だ。一昨年はチャンピオンシップで2位の士別サムライブレイズに敗れてリーグ優勝を逃したが、昨年は雪辱を果たしてリーグ優勝に輝き、独立リーグのグランドチャンピオンシップ(グラチャン)に出場することができた。
IPBL(日本独立リーグ野球機構)に加盟する四国アイランドリーグplus、BCリーグ、九州アジアリーグ、日本海リーグ、北海道フロンティアリーグ、それぞれのリーグ優勝チームが「独立リーグ日本一」を目指してトーナメント形式で戦うグラチャンは、チームもリーグも世に知らしめるまたとない機会だ。
しかもNPBのスカウト陣が多数駆けつけるため、選手にとってもアピールするチャンスである。坪井監督はグラチャンに出場し、そこでチームや選手の力を誇示すること、リーグやチームの認知度を上げることを最重要課題としてきた。
一昨年のグラチャン(参加は4チーム)では、サムライブレイズは初戦(火の国サラマンダーズ戦)が0-23、3位決定戦(高知ファイティングドッグス戦)が1-16と惨敗だった。
「『やっぱ北海道はレベルが低い』って思われた。だから、それを糧にして『うちらはグラチャンで勝つぞ』って去年やっていたわけですよ」。
昨年のグラチャンでは、初戦の愛媛マンダリンパイレーツ戦で1-4と敗れはしたが、善戦することはできた。
着実にステップアップしてきた。「俺のやり方が変わったことは何もないんですよ。最初からやっていることは一緒で、言っていることも一緒。ただ、選手のレベルが上がった。最初から比べると、確実に上がっている」と目尻を下げる。
と同時に、認知度が上がり、周りの見る目が変わってきた手応えも感じている。
■今年も目指すところ、やることの多さは変わらない
今年もチームとして目指すところは変わらない。グラチャンで勝つことを目指して、スタートしたという。
「リーグ優勝が目標じゃないよって。優勝は最低限で、ぶっちぎりで勝つくらいの気持ちで。ぶっちぎりで勝って、全国でどうかっていうくらいだよっていう話は、初日に選手たちにはしています。惜しい試合じゃダメ。やっぱ勝たないと」と鼻息は荒い。
ただ、「選手には楽しくやらせたい」という思いもある。「怒るときはめちゃめちゃ怒るよ。でも、基本的にはガミガミ怒らないようにしている(笑)」と、アメとムチを使い分けている。
選手には野球の指導だけでない。きちんとあいさつをすること、ゴミを拾うこと、靴を揃えることなど、まず「人として」という部分をたいせつに教育するところから始める。大きな声であいさつをするレッドフェニックスの選手たちの姿を見ると、坪井監督の指導が浸透していることがよくわかる。
NPBを目指す選手には、なんとか後押しをと考える。旧知のNPBスカウトには状態のいいときに見てもらえるよう、連絡も怠らない。
「レベルはまだ、ほかの独立リーグに追いついていないんじゃないかと思うけど、面白い子は出てきた。スカウトにも『ちょっと見に来てよ』って言えるようになってきたので、そのへんは楽しみではありますね」。
チームからの輩出はもちろんだが、どこかほかのチームを経由したとしても、教え子たちが最高峰の舞台でプレーしてくれることが願いである。
チーム運営についても「観客動員もすごく気にする。今はまだまだやけど、そこも重きを置いている」と、監督自ら観客増のプランを練る。NPBでの経験から、観客の目が選手を育てる一助になり得ることも知っている。
さらにスポンサー探しも請け負う。ユニフォームなどに掲出しているスポンサーも、坪井監督の人脈で獲得したものも少なくない。自身が持つすべてを投じて、独立リーグ球団の監督という仕事に没頭する日々だ。
■やりがいをもって、チームを率いる
選手とにこやかに談笑している様子を見て、楽しいかと尋ねると「楽しさはない」と即答した坪井監督。だが、「やること多いし、とにかく必死」と言ったあと、「でも、やりがいはもちろんあります!」とキリリとした笑顔を見せた。
北の大地でさらに大きく羽ばたこうとしている石狩レッドフェニックス。その鶏冠(とさか)には、熱き指揮官・坪井智哉の姿がある。
*次回は的場寛一、金村曉、両コーチの話を伝える。
的場寛一コーチの記事⇒石狩レッドフェニックスの首脳陣は阪神OB 坪井智哉監督を支える的場寛一コーチは高いレベルを求める
(写真撮影はすべて筆者)