戦争が起これば「限定」しても全く無意味
フーテン老人世直し録(86)
水無月某日
集団的自衛権を巡る与党協議が大詰めを迎える中、政府・自民党は国連が主導する集団安全保障への参加を認める方針を提案した。これまで安倍総理は「湾岸戦争やイラク戦争に参加する事は決してない」と集団安全保障への参加を否定してきた。それがあっさり覆された。
公明党は反発しているが、そもそも安倍政権と公明党とは集団的自衛権の行使容認を狭い範囲に「限定」するとしながら、その「限定」を曖昧にする事でしか折り合う方法はない。この問題でも必ず「限定」して曖昧にする方法がとられる事になる筈だ。国民に求められるのはその曖昧のいい加減さを見極めて判断する事である。
安倍総理はひたすら衆愚に訴えるポピュリズムの手法を採用してきた。だから他国の戦争に参加して武力行使する集団的自衛権を「国民を守る」個別的自衛権のように言い換え、「戦争は嫌だ」としか考えない「平和ボケ」のために行使を「限定」する方針を示した。
「湾岸戦争やイラク戦争には参加しない」と言ったのも、「平和ボケ」を安心させるためのレトリックである。ホルムズ海峡での機雷掃海作業は、機雷によって「日本国民の権利が根底から覆される」と理由をつけ集団的自衛権で対処するつもりでいた。しかし国連の安保理決議で集団安全保障が認められると、集団安全保障に参加しない日本は何もできない事になる。その矛盾に気づいて急遽方針を変えた。
おそらく集団安全保障に参加しても、戦闘に参加するのではなく、機雷掃海だけに「限定」するとか言って公明党と折り合いをつけ、その他の事は曖昧にする方法がとられることになるだろう。しかし機雷掃海中に攻撃されれば戦闘せざるを得ないのは当然である。つまり戦争では「限定」などあるのかないのか分からなくなり、しかも新事態が次々起これば泥縄の対応しかできなくなる。集団的自衛権の「限定容認論」は日本の危機と真剣に向き合った積み重ねとして出来たものではない事が分かる。
これまでの議論の流れを見てフーテンは、やはり「解釈改憲」という小手先のごまかしで我が国の安全保障を考えるべきではない事を痛感した。日本が平和国家として国際社会に貢献するには、日本国憲法のおかしさを知るところから始めなければならない。
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