都道府県別幸福度、平均年収が最低の沖縄が1位で最高の東京が46位の理由
7月25日、ブランド総合研究所は「第4回地域の持続性調査2022」の結果を公表した。
調査では「あなたは幸せですか」という質問に対し「とても幸せ」「少し幸せ」「どちらともいえない」「あまり幸せではない」「全く幸せではない」の5段階で回答してもらった。その結果、最も「幸せ」なのは沖縄県の住民であり、78%が「とても」か「少し幸せ」と回答したようだ。
興味深いのは、東京都が46位、神奈川県が45位と、ワースト2位、3位に位置する点だ(最下位は秋田)。ご存じのように、東京と神奈川は平均年収が最も高い都道府県である。お金があれば、あれもこれも手に入るため、幸福度もまた高くなるように思われがちだが、結果は真逆である。そして平均年収が最低なのは、まぎれもない沖縄県である。
現代人は幸せになりたいと思い、日々懸命に働いているが、それは間違っているのか。幸せとは何かということを、改めて考えてみる必要がある。
「もつこと」と「あること」
まず「幸せ」には、持続的なものとそうでないものがある。よってまた、単に「幸せですか」と聞いた場合、その人が以後もずっと幸福感を味わえるのかは判別できない。
持続的ではない幸せは、地位財による幸せである。コーネル大学の経済学者ロバート・フランクは、他者と比べることで満足が得られるものを地位財、他者とは関係なく満足が得られるものを非地位財と名づけ、二つに分類した。地位財は、給料や社会的ステータス、個々の所有物などである。「もつこと Having」により満足を得るものと考えて、ひとまず差し支えない。一方で非地位財とは、健康や愛情、自主性、帰属意識、よい環境などである。「あること Being」によって満足を得られるものと考えることができる。
ある人が何かを欲し、努力の結果手に入れたとき、その瞬間は喜びを得られるであろう。したがって、グッドニュースが起きたときにアンケートを実施すれば、その人は「幸せ」と答えるに違いない。また、貴重なものは多くの人に行き渡らないがゆえ、貴重とされる。自分がもたざるとき、他者がもっている場合には羨ましく思い、自分は不幸せだと感じるものである。
さらにいえば、人は生活水準を上げたり、貴重品を手に入れたりしても、時間が経つと慣れてしまう。「もつこと」や手に入れることの喜びを味わうには、もっと多くを手に入れる必要があるが、未来永劫、同等の水準にいる人よりも多くを手に入れ続けることは、きわめて難しい。だから地位財による幸せは、長続きしないのである。
東京や神奈川の人が「幸せ」ではなく、沖縄の人が「幸せ」だと感じるのは、この点に理由があるのではないか。つまり、沖縄の人びとの考える「幸せ」とは、より多くを「もつこと」ではなく、「あること」による「幸せ」だと思うのである。2013年に国連の世界幸福度調査で8位にランクしたブータンは、2019年には95位にまで下落し、以後は登場さえしなくなった。Business Insiderの記事に書かれているように、その理由は、携帯電話やテレビ、コンピューターなどが定着し始め、他国の経済事情を知り、手に入らない欲望を喚起してしまったからであろう。
限りのあるシマやムラにいると、人びとはその中で得られる幸福を追求する。人間関係は長期にわたるものが多く、ミウチの安心感の中で可能な自主性を発揮する。そもそも、最低限の衣食住が確保され、美しい自然に囲まれて、大切な家族と一緒にいられること以上の幸せなど、どこにあるのか。そのような人間らしさを保つこと、自分らしく「あること」は、明日も変わらぬ幸せを与えてくれるはずだ。
かつて社会思想家のエーリッヒ・フロムは、真に生きる喜びが得られる生き方とは、財産や地位、権力などを「もつこと」のために、限りない生産と消費に追われて「慢性の飢餓状態」に置かれるのではなく、それらの執着から解き放たれて、純粋に生きる喜びを感じられるような「あること」による生き方であると述べた。京都の禅寺である龍安寺のつくばいにも「吾唯足知(われただ足るを知る)」と書かれている。これらのメッセージが心に響くこと自体、吾われが本心で、いかなる生き方を望むのかを知っていることを表しているのではないか。
もたざることを目指さない
だから私たちは、所有を手放すべきだと考える人もいるかもしれない。しかし「もつこと」は、「あること」を持続させるために重要な要素であることも、忘れてはならない。
例えば筆者は、社会的なステータスなどは欲しいとは思わないのだが、実際には何事かをなすには、地位と立場が必要な場合がほとんどである。学生を教え導くには大学教員という立場が必要であるし、人に幸せになってもらう方法を社会発信するには、Yahoo!ニュースのオーサーであり続けねばならない。あるいは、より多くの人びとを支援するには、より高いステータスが必要ともなろう。
また、金銭は人助けの道具である。多くの金銭があれば、多くの恵まれない人びとを幸せにする事業を生み出すことができる。自分の幸せばかりでなく、他者もまた幸せにすることを望むのであれば、現実として金銭は手に入れる必要がある。
ようするに、積極的に善行をなすには最低限の個人的生活の保障だけでなく、他者のためにも使える財が必要となるのである。結局のところ「幸せ」であるか否かは、個々人の「ありかた」に従うのであろう。たしかに、善を知りながらそれをなすことのできない人は、いまだ善人とはいえない。
だから、もたざる者は不幸かというと、そうともいえない。善をなさんとし努力する者を、ひとは善人と呼ぶ。人間は本性において社会的動物であり、他者との関係の中に自らを位置づけているのである。かくして、経済力の高さが幸せを生み出すとは限らず、人の生き方が幸せか否かを決めるのである。財とは道具であり、また道具にすぎない。