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「金儲けの話は汚い」とのたまう心の濁った人たちへ

遠藤司皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー
(写真:アフロ)

 先日、「「AIは幻滅、ビッグデータは陳腐化」の意味を誤解していないか」という記事を書いた。

 米国に本社を置く世界最大の調査・助言会社ガートナーは、テクノロジーの動向を簡潔に示すために、ハイプ・サイクルという図を開発した。日本におけるハイプ・サイクルでは、AIは幻滅期に位置づけられ、ビッグ・データは安定期に達する前に陳腐化すると評価されている。この言葉の意味を誤解すると、AIやビッグ・データなどは活用することができなくなる。ひいては、ビジネスは衰えていくことになる。

 したがって結びには、テクノロジーこそは金の種だと率直に述べた。予想はしていたが、こういう書き方をすると、どうしても嫌悪感を抱く人たちが現れる。どうやら彼らは、おおっぴらに金の話をするのは汚いことだと思っているようだ。あるいはそれは、品のない行為だとみなされるのだろう。善なる日本人を育てることを目指す皇學館大学で金儲けを教えている筆者などは、学内イチ、みっともない存在なのである。

 金に対するそのような見方、考え方が、日本経済の成長を抑制している。当記事では、金の話をすることがどれほど重要なことかについて、はっきりと述べていきたい。

金儲けの話はいいことだ

 基本的に成果は、持ち前のスキルや能力よりも、マインドに左右される。切れ味鋭い包丁を持っていても、それを用いて美味しい料理を作ろうというマインドがなければ、腕をふるうことができないからだ。あるいは包丁は、人を殺すための道具にもなりうる。人のマインドのよし悪しが、包丁という道具の活用方法を決めるのである。

 金もまた、包丁と同じように、道具にすぎない。よって、金の話がきれいか汚いかという議論自体、馬鹿げているのだ。きれいか汚いかは、人が金をどう扱うかによる。悪事によって金を稼ぐとき、金を使って悪事をなすとき、それは金が汚いのではなく、悪事をなす者が汚いのである。ノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエクが言うように、あくまでも金は、人が目的に向かう自由を得るための道具なのである。

 わが国には、清貧の思想がある。この思想は、かねて金の話をしてこなかったせいか、誤った解釈がなされている。元来、清貧とは、我欲ばかり追い求めて金なんぞに振り回されるくらいなら、貧しくても清らかな生活に安んじていたほうがよい、といった意味だ。ようするに、善人であるためには貧しくあれ、ということではなく、金のもつ魔力に警戒せよ、と言っているのである。たしかに金は、人を悪の道へと誘うことがある。だからこそ、金という道具の扱い方を、普段から考えていなければならない。

 ところで、今日の飯を食えないほど貧窮に陥った者は、店先に並んでいる一切れのパンを盗むことだろう。基本的に、人が不正を働くのは、何かに追いつめられているからだ。フランダースの犬の少年ネロのように、それでも善人であり続けることもできよう。しかしネロは、失意のなか教会で、天に召された。金さえあれば、学校に通い、ひとかどの人物になれたのに。貧しい善人が死を迎える運命にあるならば、この世は悪人ばかりが蔓延ることになる。そういう世の中で、本当によいのか。

 マネジメントの父ピーター・ドラッカーにならって言えば、金は明日のためのコストである。そうであるならば、むしろ善人ほど、金儲けの話をすべきである。なぜなら善人は、金を稼ぐときも使うときも、善なる存在であらんとするからだ。ようするに、金は汚いなどと言っている者は、汚い稼ぎ方や強欲な使い方しか思い浮かばない「心の濁った人」なのである。清い心をもつ者が金の話をするとき、金は世の中に善をふりまくための道具となる。善人こそ、ビジネスを生み出す方法を学ぶべきなのである。

 金は、悪人の手に渡れば、悪事をなす道具となる。しかし、善人の手に渡れば、善をなすための道具となるのである。

テクノロジーを正義のために

 ここでもう一度、前回の記事の最後「テクノロジーは、金なり」を読んでほしい。アリストテレスは、技術はそれ自体とくになにであるとも言われないものである、と述べた。技術の可能性を悪のためではなく、善なる目的のために活用することが望まれる。

 AIやビッグ・データは、もしも悪事のために用いられるならば、人びとから多くのものを奪っていくだろう。しかし、善なる目的のために用いられるならば、人びとに大いなる恩恵を与えることができる。それらのテクノロジーを正しく理解し、善意のために用いられることで、よりよい世の中が出来上がっていくのである。

 力なき正義は無能であり、正義なき力は暴虐であるとのパスカルの言葉は、よく言ったものだ。テクノロジーは、われわれに力を与える。しかしその力は、暴虐あるいは専横のために用いることもできるのだ。そうした勢力に対抗するためには、善人こそが力をつけなければならない。善人は、無能であってはならないのだ。

 いまの世の中において、金は大いなる力である。日本の未来は、この力を明日のために行使することができるかどうかにかかっている。善人は、何事もなさずただじっとしているだけでは、善人ではない。明日への責任を背負い、弱き者たちを助けるために自らの安住の地から飛び出す勇気をもつとき、かれは善人と呼ばれるのである。

皇學館大学特別招聘教授 SPEC&Company パートナー

1981年、山梨県生まれ。MITテクノロジーレビューのアンバサダー歴任。富士ゼロックス、ガートナー、皇學館大学准教授、経営コンサル会社の執行役員を経て、現在。複数の団体の理事や役員等を務めつつ、実践的な経営手法の開発に勤しむ。また、複数回に渡り政府機関等に政策提言を実施。主な専門は事業創造、経営思想。著書に『正統のドラッカー イノベーションと保守主義』『正統のドラッカー 古来の自由とマネジメント』『創造力はこうやって鍛える』『ビビリ改善ハンドブック』『「日本的経営」の誤解』など。同志社大学大学院法学研究科博士前期課程修了。

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