クライストチャーチ51人殺害犯の抗議――「裁判で人間扱いされなかった」
- NZクライストチャーチ銃撃テロで終身刑が科されたブレントン・タラントは「裁判で自分の権利が侵害された」と主張している。
- その最大の論点は「裁判官が自分の名前を呼ばなかった」というものである。
- 今になって裁判の不当性を訴えるタラントには、「つけ込まれた陰謀論者」に特有の精神性や悲哀を見出せる。
ニュージーランド(NZ)のクライストチャーチでモスクを銃撃し、51人を殺害したとして裁判で終身刑が科されたブレントン・タラント受刑者は、今になって「裁判が不当だった」と言い始めた。
「自分の権利が侵害された」
2019年2月にクライストチャーチ事件を引き起こし、昨年3月に保釈のない終身刑が言い渡されたタラントは、11月8日に弁護士を通じて手記を発表し、そのなかで「裁判で自分が人間として扱われなかった」と主張した。
とりわけ強調されたのが、裁判官が公判のプロセスで一度もタラントを名前で呼ばず、「その個人(The individual)」と呼び続けたことだった。これが裁判の正当性を損なっただけでなく、人間として扱われず、個人としての権利が無視されたというのだ。
クライストチャーチ事件の直後、NZのアーダーン首相はタラントの名を呼ぶことを拒絶した。「彼はテロリストだ。犯罪者だ。過激派だ。しかし、私が呼ぶとき彼は『名無し(nameless)』だ…彼は名前を売りたがっているのかもしれない。しかし、NZは彼に何も与えない。名前さえも」。
アーダーン首相は「タラントの行為や言い分を一切認めない」という強い意志を示すと同時に、「タラントの名前が一人歩きして模倣犯を触発するのを防がなければならない」という考えを示したといえる。裁判官が名前を呼ばなかったことも、これを受けてのものだ。
これに抗議するタラントは、自分に対する扱いが重大な人権侵害だと主張しているのである。これに加えてタラントは手記のなかで、弁護士との接見が制限された、訴訟手続きについて事前にほとんど説明されなかった、などにも不満を呈しているという。
裁判の不当さは「罪を認めることが最も安易な道と彼に判断させた」と弁護士は説明しており、そのうえでタラントの名前を呼ばなかった裁判官は謝罪するべきとも主張した。地元メディアは来月タラントの弁護士と裁判官と会談する予定と報じている。
冤罪なのか
実際、裁判のプロセスで被告の名前を呼ばないことは、法的には問題があるだろう。少なくとも、かなり特殊であることは間違いない。また、NZ史上類をみない凶悪な犯罪であっただけに、その被告に対する扱いは通常より厳しかったかもしれない。
だとしても、である。「裁判が不当だった=冤罪だった」という言い分は簡単に信用できない。
日本でも冤罪裁判はしばしばある(そのこと自体問題だが)が、その多くは物的証拠の乏しい事件で、検察がほぼ状況証拠だけで犯人を特定し、長期間の拘留などで精神力を弱らせられた被疑者がありもしない罪を自供したものの裁判で無罪を主張し始める、といったパターンだ。
これに対して、タラントは取調べのなかだけでなく公判の場でも罪を認めている。また、犯行直後に拘束されたタラントには銃器や車といった物的証拠も数多くある。さらに、モスク内で被害者が次々と銃撃されるさまはSNSで配信されたが、それがタラントのアカウントであったことも間違いない。
これだけ揃っていて「裁判の手順が通常でなかった」ことだけを根拠に冤罪を主張するのは説得力が乏しい。
しかも、そこまで言いながらタラントは裁判のやり直しを明確に求めているわけでもない。弁護士は再審請求を助言したというが、これに関してタラントの手記では触れられていない。
だとすると、なぜ
今になって「裁判の不当性」を主張するタラントには、陰謀論を信じる過激派にありがちな精神性を見出せる。
モスク襲撃の直前、SNSにあげていた犯行声明のなかでタラントは「リベラルな政治家や大手メディアが結託して移民を流入させ、白人世界を抹殺しようとする陰謀」について言及していた。これは近年の白人右翼の間で広がっている典型的な陰謀論だが、一般に陰謀論を信じやすい人には、主に3つの特徴があげられる。
(1)不確実性や矛盾なしに現実を理解したい欲求
さまざまな変数が入り乱れる現代社会で、一つの出来事(例えば、なぜ自分の仕事はうまくいかないか)を一つの理由だけで説明することはほぼ不可能で、それを無理にするなら「悪意のある他者の陰謀」(つまり相性の悪い上司が嫌がらせしているからだ、など)という説明が最もシンプルで一貫性をもたせやすい(本当は自分に原因があるのかもしれないし、景気全体の問題かもしれない)。
タラントにとって、「白人世界を守った」と賞賛されるべき自分に終身刑が科される事態は「あってはならないこと」で、これを矛盾なく説明するには「裁判が不当だった」という理由づけが一番もっともらしいかもしれない。
(2)外から干渉されたくない欲求
基本的に陰謀論を信じやすい人は自分に自信がない人が多く、安心感を得るために他者とのかかわりを避けようとするが、それができない場合に「悪意のある誰かの陰謀」がイメージされやすい。
「裁判が不当だった」と言いながらもタラントが再審請求に踏み切らないのは、それが弁護士をはじめとする他者の関与を必要とするから、とみられる。そこに「悪意のある他者」への警戒心の強さを見出せる。
(3)自己イメージをよくしたい欲求
自信のなさの反動で承認欲求やナルシズムが強いのも、陰謀論を信じやすい人の特徴だ。虚栄心の強さから、平気でウソもつけるのも、このタイプによくみられる。
今回のタラントの手記について、事件現場となったモスクのイマーム(導師)は英紙ガーディアンの取材に「彼はさらに名前を売るためのスタンドプレーをしている」と述べているが、この指摘は概ね正鵠を射ているように思われる。
「つけ込まれた陰謀論者」の悲哀
もしタラントが「悪意ある他者に自分が虐げられている」という陰謀論に基づいてモスクを銃撃し、さらに「裁判の不当性」を確信しているなら、それはタラントが自信のなさや虚栄心をつけ込まれた陰謀論者であることを意味する。
むしろ、陰謀論を主体的に展開する側は、往々にして現実と夢想を明確に区別している。
第二次世界大戦の入り口になった1939年のポーランド侵攻の直前、ヒトラーは側近らを前にして「戦端を開く理由は宣伝相に与えよう。それがもっともらしい議論であろうがなかろうが構わない…戦争を遂行するにあたっては正義など問題ではなく、要は勝利にあるのだ」と語っている。陰謀論をまき散らし、多くのドイツ人を扇動した当の本人は、少なくともこの時点では、スローガンはスローガン、現実は現実と明確に区別し、陰謀論に呑まれていなかったといえる。
これと比べると、「つけ込まれた陰謀論者」は自信のなさや虚栄心から、誰かが宣伝する陰謀論にただ追随し、スローガンや夢想から現実をみているに過ぎない。「大統領選挙で不正があった」という陰謀論を信じてアメリカ連邦議会を占拠した暴徒も、基本的には変わらない。彼らは陰謀論を展開する側からみればコマ、あるいは顧客だ。
だとすると、他人を信用できず、自分にも自信がなく、安心感を得るために陰謀論を信じやすい人は、それによって結果的に他人にコントロールされていることになる。その悲哀に気づかないことが、つけ込まれた陰謀論者の本当の悲哀なのだ。