“出版社をつくるつもりじゃなかった”。創刊38年 名古屋のタウン誌『ケリー』誕生秘話
連載企画「名古屋タウン誌クロニクル」、第1弾は『ケリー』黎明期編
名古屋はかつて「タウン誌王国」でした。女性向け情報誌をはじめ男性、ミセス、学生、サブカル系など、様々なターゲットに向けて地元出版社が多彩な雑誌を刊行。全国誌にひけをとらないクオリティを誇り、書店でトップクラスの販売数を誇るタイトルもありました。
(関連記事:「創刊30余年のタウン誌に東海ウォーカーも存続。名古屋で情報誌が愛される理由とは?」 2020年6月26日)
しかし、雑誌冬の時代となった今、名古屋のタウン誌シーンも往年の活気は過去のものとなっています。月刊サイクルで刊行される雑誌はほぼなくなり、種類も数えるほどに。それでも根強い支持を得て、時代の荒波に立ち向かっている雑誌はあります。
そこで、今なお健在の雑誌、姿を消してしまった雑誌を取り上げながら、名古屋のタウン誌の歴史をふり返り、未来の可能性を探る、そんな記事を「名古屋タウン誌クロニクル」と題して不定期連載で続けていきたいと思います。第1弾は『ケリー』の誕生秘話に迫る黎明期編です。
創刊38年の『ケリー』は2022年に月刊から隔月刊化
『ケリー』は1987年に創刊し、2024年現在38年目。最新の2024年7月号で通巻実に430号。名古屋で知らない人はいないタウン誌の代表格です。2022年にそれまでの月刊から隔月刊にリニューアル。この転換によって制作期間に余裕ができ、Web・SNS時代における雑誌の特性を明確化できたことで、現在業績は再び上向いているといいます。
ディスコのヒットメーカーが1987年に創刊
今や老舗ブランドともいえる存在となった『ケリー』は、どんな道のりをたどってきたのでしょうか?
「『ケリー』が思っていた以上に売れたので、出版社というイメージがついちゃったんですが、そもそも出版社をつくろうという発想はなかったんです」
そんな意外な発言をするのは発行元の(株)ゲインの創業者、現会長の藤井英明さん(74歳)です。
「社名のゲインは“Gather and Analyze Information =情報を集めて分析する”の意。雑誌は消費者の意識や情報をつかむためのツールであって、それを分析して様々な企業に次のビジネスのヒントを提案・販売するというのが我々の業務の柱なんです」
この言葉からもうかがえるように『ケリー』の生みの親である藤井さんは、もともと出版畑の人物ではありませんでした。何とディスコを次々にヒットさせていた名古屋のナイトシーンの仕掛け人だったのです。
「僕は高校卒業後に長野県から名古屋に出てきた田舎者だったんですが、浪人時代に『ラテンクオーター』という音楽喫茶でバイトすることになって、大学卒業後も飲食の世界に身をおくようになりました。その店の経営元が当時は不二興業といっていたイデックス(現在も名古屋、愛知県内を中心に居酒屋、焼き肉店、ラーメン店などを運営する名古屋の外食企業)。30才くらいの時に『マハラジャ』が全国でブームになって、それに負けない店をとつくったのが『ダンスホール』(1985年)や『アビーム』(1986年)でした」
これらの店をプロデュースしたのが、当時、チェッカーズのプロデューサーとして名を馳せ、スーパーエディターの異名をとっていた秋山道男さん(故人)。藤井さんは半年以上かけて秋山さんを口説き落とし、自らニューヨーク、パリ、ロンドンなどのディスコやクラブを見て回って、その最先端のムーブメントを名古屋に持ち込みます。アート感にあふれてクールなイメージを打ち出したダンスホール、アビームは、きらびやかでゴージャスなマハラジャとは異なる客層をつかみ、たちまち大ヒットします。
そんな華やかな世界で手腕を発揮していた藤井さんが、なぜ雑誌をつくることになったのでしょうか?
「クリエイターを起用して若者の心をつかむ空間をつくる。その手法を使って、つくるものを空間を媒体に置き換えるという発想です。だから、自分の中ではそんなに畑違いのものを手がけるという意識はなかったんですよ」
また、既存の雑誌に対する物足りなさも、雑誌をつくろうと考えた動機のひとつでした。
「雑誌がうちの店を取材して紹介してくれるんですが、その内容に今ひとつ満足できなかった。名古屋の雑誌は扱いが小さいし内容もどこかピンと来ない。東京のマガジンハウスの雑誌なども取り上げてくれたんですが、こちらは内容のクオリティは高いけれど掲載までにタイムラグがある。それなら自分で雑誌をつくってしまおう、と考えたんです」
タウン誌花盛りの80年代にあって異質だった発想
当時はまさにタウン誌花盛りの時代。1972年に東京で創刊した『ぴあ』が若者の間で絶大なる支持を獲得し、大阪では『プレイガイドジャーナル』、名古屋では『プレイガイドジャーナル名古屋』(大阪の同名誌とは無関係)、『アワーシティ』がこれに続いていました。タウン誌では珍しい女性向けの『Cheek』(チーク)も1984年11月に創刊(当時は中部経済新聞社が発行。85年12月から名古屋流行発信が買収)。当時の雑誌の発行部数は、かつてのプロ野球の入場者数と同じく“公称”が常識だったので、実数とは差があるとは思いますが、いくつかのメディアに残っている記録では、『プレイガイドジャーナル名古屋』は3万8000部、『Cheek』は7万部とされています。
出版シーン全体が活況だったとはいえ、地方のタウン誌というと手づくり感あふれるミニコミも多く、出版に対しても“清貧”のイメージが地方ほど強かった時代。しかし、ディスコというきらびやかな場を億単位の資金をかけて手がけていた藤井さんは、既存のタウン誌出版とは発想が異なりました。イデックスに籍を残しながら新雑誌創刊の会社を立ち上げ、資本金2000万円のうちおよそ半分は親会社からの融資。タウン誌の世界では破格の潤沢な資金をもって雑誌づくりに取りかかったのです。
東京の一流クリエイターが制作を担当
そして、手法はディスコを立ち上げた時と同様、東京の一流のクリエイターを起用するというもの。何とパイロット(見本)版の段階から、マガジンハウスの『anan』『ポパイ』の編集者らが制作を担当しました。
誌面のクオリティとともに藤井さんがこだわったのが雑誌コードの取得でした。雑誌コードとは、出版物の卸にあたる取次業者が雑誌の流通を管理するための識別ナンバー。これがないと出版社は個々の書店に直接配本しなければならず、伝票処理や売れ残りの回収を含めて大変な労力がかかります。しかし、雑誌コードは取次による審査が厳しく、実績のある出版社でなければ容易に取得はできません。それでも、藤井さんは有力な書店の団体に働きかけるなど、様々なルートを介して雑誌コードの取得を実現。何の実績もない新会社の新雑誌がいきなり雑誌コードを取得するのはかなり異例のできごとでした。
こうして1987年6月、『月刊ケリー』創刊号(8月号)が発売。特集タイトルは「お洒落に見える人は、自信のあるひと」。表紙では外国人女性モデルがアンニュイな表情を浮かべ、誌面ではファッションをテーマにしたコラムやインタビューが充実。もちろんグルメ情報も掲載していましたが、一見して地方のタウン情報誌には見えないものでした。事実、販売エリアは名古屋にとどまらず、東京、大阪にも配本されました。
「スポンサーの反応はよく、大手化粧品メーカーから広告出稿があったりテレビ局がクライアントを紹介してくれたりし、創刊当初から広告収入は1500万円くらいありました。読者からも『名古屋でこんなカッコいい雑誌がつくれるなんて!』と評価してくれる声が少なからずありました」。
創刊までに6000万円をつぎ込み赤字が累積。借り入れは2億円近くに
しかし、そんな手応えとは裏腹に、船出したケリーは順風満帆とは行きませんでした。
「出版のビジネスサイズというものを分かっていなかったんです。ふたを開けてみれば返本の山。売れた分のお金は何ヶ月も先まで入ってこない。でも制作費の支払いはしなければならない。東京のスタッフを起用して制作にお金をかけたので、初回の請求額が6000万円にもかさみました。その後も赤字が続き、借金は3年足らずで2億円近くにまで膨れ上がりました」
この窮地を救ったのはイデックスの八木広太郎社長(故人)でした。幾度となく融資を重ねてくれたのです。
「非常にお金にシビアな人だったのですが、なぜかその都度資金援助をしてくれました。私がディスコを何軒も成功させたことを買ってくれていたのではないかと思うのですが、『藤井君、やめちゃいかんぞ』と何度も助けてくれました」
そんな綱渡りの状況が続く中、藤井さん自身は『ケリー』の存続をあきらめるという考えにはいたらなかったのでしょうか?
「それはまったくなかったですね。店をつくるのに2億、3億とかけることもあったので、新しいビジネスを成功させるのにはお金と時間がかかるのは当然だと考えていました。店の場合は何億かけてもまったくダメな店もあれば、大してお金をかけなくても大繁盛することもあるわけですが(苦笑)。それでも、むしろこれだけ応援してもらっているのだから途中でやめるわけにはいかない!という思いでした」
この間に変えたのは販路と制作体制。東京、大阪ではほとんど売れないため販売エリアは名古屋を中心とする東海地方にしぼりこみました。また、赤字の大きな原因となっていた東京のクリエイターへの外注費をカットし、創刊から数ヶ月で編集部の内製化を進めます。ライター、カメラマンなどの外部スタッフも、名古屋在住の人材中心にシフトしていきました。
「突然、売れ始めた」。90年代に状況が一変した理由とは?
風向きが変わるのは1990年。「突然、売れ始めた」と藤井さんは当時の状況を評します。その要因は「男女雇用機会均等法、週休2日制の効果が現れ始めたこと」と藤井さん。1986年に施行された同法によって女性進出が進み、さらに週休2日制が浸透し、余暇にお金と時間を回せるようになった、その成果がようやく現れ始め、女性をターゲットとした同誌の部数も飛躍的に伸びていったのです。
部数が伸びるのと同調して広告収入もぐんぐんアップ。同時に、藤井さんが社名に掲げたGAIN=情報を分析して販売する、という価値も高まっていきます。読者の数が増えたことで多数の声を吸い上げられるようになり、トレンドをつかむ精度が高まり、クライアントが望んでいた情報をしっかり提供、提案できるようになったからです。
「誌面の内容は創刊の頃から大きくは変えていない。時代が変わったんです」と藤井さん。3年間赤字続きだった『ケリー』は一躍ドル箱に。およそ2億円あった借入金をその後の3年で完済。その後は部数も広告収入も右肩上がりとなっていきます。90年代に入って一転、『ケリー』は名古屋を代表するタウン誌となり、黄金期を迎えることになるのです。
(「名古屋タウン誌クロニクル『ケリー』黄金期編」に続きます)
(写真撮影/筆者。ダンスホール写真はゲイン提供)